昭和28年9月 愛知川左岸神郷(じんごう)町地先の堤防が決壊(滋賀県資料)
【葛巻周辺水害の概要】
水害前日、葛巻周辺では150ミリ~200ミリぐらいの普通の雨とは違う雨が降り続いていた。
水害当日、夕方頃から強い雨が降り始め、葛巻の人々は避難や警戒を目安としている場所へ脚を運び、洪水の状況を確かめていた。
一方で消防団は、東沢砂川の決壊を防ぐために建設された、調整用の堤で水防活動を行い、上流から流れてきた水を土嚢で防いでいた。
時間が経つにつれ、日野川の水が水位上昇し、避難と警戒水位の目安としている場所に、河川の水が乗り始めていた。その状況を知った人々は、避難準備に取りかかり、米や食料をツシに持ち運ぶなど行動し始める。
消防団は、鐘を叩きながら集落に危険を知らせた。
夜、霞堤(「上原」と呼ばれている日野川左岸)が決壊し、堤防から白い津波のような水が葛巻に押し寄せ、たちまち日野川の水と共に藁や菜種のカス・柴といったモノが流れてきた。
その結果、葛巻は5軒ほど除いて床上浸水に見舞われ、人々は家の2階以上に避難した。
しかし、大阪から疎開で帰省されていた方が1名、亡くなられている。
体験者の語り(昭和17年生まれ)
昭和28年の水害の時は、小学校ぐらいかな。日野川が危ないというので、自分は隣の高い家に逃げたんや。この時は酷かった。水が浸いてくるので、オロオロしてね。
最初に水害に遭った昭和28年の時は、水が引いても、床板を洗ったりする余裕が全然ない。
34年の伊勢湾台風の時は、2へん目、3へん目となってくるから、物をどけたり上げたりして、多少は気持ちに余裕があったけどね。
体験者の語り(男性~昭和2年生まれ)
昭和28年の水害の折は、ちょうど消防団へ入らして貰った時ですので、よく記憶をしております。
葛巻は、日野川と法教寺川に囲まれた三角地帯にあります。
過去には、低地の所は毎年のように、多い年は3回ぐらいは、家の中に水が入らない場合でも、田んぼが水没していました。
葛巻から入ってくる水が抜ける場所は、法教寺川が唯一の捌け口です。上流から、排水できる以上の水が入ってきた(集落に流れてきた)場合は、段々集落に水が溜まってくるのは当然ですので、過去には水害が何回もありました。
昭和28年の台風当時は、今と気象条件が違うのか、非常に雨が降りました。前日から雨が150ミリぐらい降ったんでしょう。当日は200ミリ降ったという記録がありますけど、普通の雨じゃなかったということは確かです。
「低いところは水に浸くもんや」ということで、私の家は高いんやけど、小屋は非常に低いところにある。台風の接近のとき浸水する恐れがあるとか、危険性を感じていました。そやから、出来るだけの物はツシというか高いところに持ち上げたり、あるいは自分の屋敷の高いところにあげて、被害のないように心がけてはおったんです。
夜の8時頃だと思うんですけど、消防が避難命令を出し、鐘を鳴らして集落中に知らせてくれていました。私は集落の西の外れに住んでいるんですけれども、表(玄関)に出たときには(水が)一尺五寸、60cmぐらいの水嵩がある白い波がド~っと真っ直ぐに押し寄せてきました。それと同時に、藁とか菜種のカス、木を燃料にするようなモノが一緒に流れてきて、とても前に進めるような状況じゃなかった。
大阪から疎開して帰ってきた方が低いところに住んでおられるので、「助けにいかな」と思ったけど、とても行ける状態じゃなかった。
そしたら、家の前のおばあさんが危ないということで、すぐに背負って、自分の家まで連れていってあげた。
その当時、葛巻で床上浸水しなかった家は、5軒だけだったと記憶しています。後は大なり小なり、水に浸いたということです。浸いてる時間は2時間ぐらいだと思う。正確なことは分かりませんけど。
【水防の話】
その時分は、集落の表に堤防があったんです。今の位置で表すと、県道の消防署のあたり。現在の道路の高さよりは高くはない。上から流れてくる水量が少ないと、この堤防で水を防いで、法教寺川に排出できるようにしてたわけです。
けれど、度々その堤防を水が超すということがあったのに、なぜ堤防を高くしていないかというと、必要以上に高くしたら、集落は守れるんやけど、堤防で水が溜まって水が増えた場合、下流で堤防が切れる危険性が非常に高くなるということで、あまり高くしなかったわけです。
その堤防の下流が切れた場合は、国道の堤防が切れるよりかは、人害ですわね。それで、そこが切れないように、集落前の堤防は、調整用の堤防であることを、我々はずっと親の時代から聞いていました。
その堤防が切れないよう、消防が鐘を叩いてみんなを寄せて、土嚢なんかで防いでおったんですけど、28年の折には、そのぐらいの水防活動では追いつくことが出来無くって。ちょうど津波が押し寄せてくるような状態で、すぐ集落に引き返してきました。
そして、いろんなモノが先に流れてくる。燃料として麦わらとか種木とか、転々と田んぼの近くにあったわけで、それが一番に流れてきました。
体験者の語り(男性~昭和6年生まれ)
当時私の家は、上原の霞堤の切れた場所のすぐしもにあって、家にいてたら「切れた~」という声が聞こえてきた。
上原の堤防には、柿の木が2・3本あって、それが水に流されてウチの家にきた。ウチの2番目の子が2階にいたから、ドボンと水の中に落ちよったんわや。娘は隣の木に捕まっとったから、良かったけど。
【救助活動】
橋の資材置き場から古い木材を取り出し、筏に組んで、自衛隊2名と僕の3名で水谷までずっと下がりました。
西の方へ行ったら、Yさんの家が浸水していて、一階から家へ入れなかった。あの時分はクズ屋があって、その上にYさんが避難してはって。Yさんは手で救助の合図をしはった。僕たちは、Yさんを筏に乗せることはできへん。でも「どうもないか」と声をかけて。水は2階に行く 階段の、上から3段目のところまで浸いとるんやわ。
体験者の語り(男性~昭和21年生まれ)
【避難の目安は、橋の下のねむの木のところに水がきたら】
経験ちゅうても、まだ幼いころやったでね、うる覚え。でも、うる覚えの中でも、はっきり目に焼き付いてる。
雨がぎょうさん降ると、じいさんの背中に負われて、いち早く水の混み具合を堤防へ見に行っていました。
昔、”井登り”する時に、人が一服するところがあった。今でいう日野川橋の下の前あたりにね。その上に水がチョロ~っと乗ったら、「避難の用意せよ」とお爺さんが言ってた。
もう一つ、避難の目安にしている場所がある。一服する場所にネムの木があって、ねむの木の根元まで水が来ると、「日野川橋には行ったらあかん」って。「いくら橋が丈夫でも、一服するところまで見に言ったらあかん」ちゅうて言われてた。
当時も、じいさんに背負われて堤防を見に行き、堤防から帰る道中に、何人もの人が堤防に見に行こうとしているところを、覚えてる。
避難するのも、お爺さんが「もうあかん」と言いはって。じいさんの背中に負われてXさん宅へ避難していく時に、小っちゃな窓から堤防を見たとき、始め白い波のようなものがザ~と流れて、だんだん堤防が広く切れていく姿を見たのを覚えています。
小さいときは、水はそんなに怖いとは思ってなんだ。でも、年寄りのこういう姿を振り返ってみると、その怖さというのを想い出す。
【見回りはみんなで行ったらあかん】
消防に入って班長をやらしてもらった時に、「固まって堤防に行ったらあかん。」「3人ぐらいで綱を持って、見回りに行け。いつ堤防が切れるかわからんけ。」と、年寄りの言い伝えの力を借りていました。
体験者の語り(昭和14年生まれ)
その時、私は中学生ぐらいでしたので、消防みたいに先に出て行くという経験はしてません、まだ親が主力でしたので。
私の家は、県道13号線のちょっと下手なもので、家から決壊した堤防の方を見ると、ダ~っと水が堤防を越えて来るのが見えました。
消防の方が、「もう、あかんわ」ちゅうなことで、鐘を鳴らしていました。
とにかく食料が大事やさかい、お米を袋に入れてツシに上げるというのを、よくやらされてました。今みたいに、お米がちょっと台所に置いてある、というようなんでない。米は全部、10俵缶に貯蔵して、庭の隅に置いてあるんやわ。それで、まず食料が大事やさかい。
あと牛ですわ。当時の牛は家内の一員です。昭和28年で思うのに、ちょっと余裕があったんかな、山の上にあるお宅に牛を預けに行ったわ。余裕がありすぎやけど、そんな記憶があります。
中学時代やったか、怖いので、ちょっとでも雨が降ってきだしたら、必ず日野川の避難の目安にしているネムの木を見に行って、水がどんだけやと確認しに行ったのは覚えています。
体験者の語り(男性~大正13年生まれ)
夕方ようけ雨が降ったし、家で仕事をしていたら、「ちょっと河原を見に行こう」言われて、堤防を見に行った。
堤防までたどり着いて、ふと川の水面を見たら、水がそこに見えてるねん。ワシは「これはもう、あかん」と思ったな。お寺の会所に鐘があって、すぐに集落内を走りながら鐘を叩いて廻ったんやけどな、廻っていたら、すでに東の道にダ~っと水が流れてた。
昭和34年台風7号の時、神郷町の決壊箇所から離れた小川町にも、愛知川の水が流れてきた。
滋賀県資料
体験者の語り(大正14年生まれ)
■「堤防が切れたー」って走ってきた
昭和28年13号台風では、愛知川左岸、神郷の堤防が決壊した。愛知川の水は、種町、今町を通り、小川町まで来た。
あれ、いつごろやったやろうなあ。前の道をなあ、堤防が切れたーって言うて、通りを走らはったんやわ。
ふっと見たら、向こうから、だーっと濁流が流れてくるんや。ほんで、床下浸水して。ほんまにもう、びっくりして。
「切れた」と聞いた後、家族と一緒に家にいた。家の前の道には、くるぶしが浸かるくらいの水が来た。一日ほどで、水は引いた。
■大同川はよく溢れた
昔の大同川には、堤防がなかった。
そら、愛知川の方が切れたら怖いけど、切れへんなんだでなあ。大同川は、ちょっと雨がふったら、すぐ盛越してなあ。
1年に2~3回ほど、大同川が溢れ、その水が田に流れることがあった。躰光寺のお寺の裏にあるうちの田んぼにも、よく水が浸いた。
■水路と魚つかみ
雨が降ると、家の横にある水路も溢れた。子どもたちは網をもって、魚つかみをした。ハエやボテジャコなどの魚がいた。うちのおじいさんも、雨の後、よく「一人ずくい」にいった。
体験者の語り (男性6名~昭和6・8・25~27年生) 平成26年8月8日聞き取り
【この調査は、立命館大学歴史都市防災研究室と協働で行いました】
東近江市の旧愛東町区域は、愛知川の右岸に位置し、鈴鹿山系を水源とする愛知川および加領川等の、中小河川の氾濫によって形成された扇状地が広がる、県内有数の農業地域である。
妹は、愛知川右岸の河岸段丘の高台と低地の2地域に分かれており、高台の集落は「上の段」、低地側は「下の段」と呼ばれている。かつては、「下の段」のみが居住地区だった。1756年の洪水をきっかけに、「下の段」から「上の段」へ移住が始まった。
「上の段」に、「うえのかいどう」という高さ1~2mの小さな丘のようなものが、溜め池から溢れてくる野水から集落を守るために、造られていた。
昭和28年9月25日、数日降り続いた雨により、愛知川は数か所に渡って堤防が決壊した。
ひと月前の8月15日~16日に、信楽方面を中心に甚大な被害をもたらした多羅尾豪雨の、復旧工事が完成する間もなく、再び襲ってきた台風は、暴風雨区域が広く、またもや各地で水害を引き起こした。
愛知川は、春日橋下流左岸で100mにわたり決壊した。左岸は、右岸より堤防の高さが低く、川から溢れた水が左岸側に流れるように工夫してある。そのため、あたりは田んぼになっており、幸い人家への被害はなかった。
決壊した堤防は石垣で復旧されていたため、その跡は、現在も石畳として残っている。
また、上流からの流木がひっかって、春日橋が落橋した。
住民の方たちの体験から、昭和13年の水害・昭和28年台風13号・昭和34年伊勢湾台風・昭和36年第2室戸台風・昭和40年台風24号の水害をまとめてあります。
写真提供:妹町自治会
体験者の語り(男性~大正10年生まれ)
【北風が吹くと愛知川は増水する】
昭和28年の切れたときは、私は役員で堤防の方してた。
昔からの言い伝えがあって、「北風の暴風雨になったら愛知川は増水する」。北側からの暴風雨になったら愛知川が増水する。
昼の2時ごろやったと思うけど、私ともう1人で、川原に堤防の警戒に行った。
堤防にあるけもの道を行かんならんけど、風がひどいもんやから、木や竹がばーっとなって歩けない。
川を見ると、水の盾ができてた。何のことかというと、風が水面に、きつう吹きつけよると、向こうから水が流れてくる。ばーっと水が盾になる。そうすると、堤防より水の方が高くなる。
その水が堤防に流れて、堤防が削られていったら、いっぺんに切れる。それで決壊になる。
こら、あかんっていうて帰ってきて、区長に、警防団の召集と総出を召集してくれていうた。区長が指示して、警防団の要請をした。わしら、どぼどぼやったし、家帰ってお風呂に入って、ご飯食べてから会議所に行った。
【水を見たとき、声も出なかった】
しばらくして、「おかしいな、何かゴトゴト音がしてる。なんやおかしいな。」いうてたら、水が会議所のところにどーっと来た。会議所を飛んで出たんやけど、会議所前の道が渡れへん。
びっくりした。まさかって。声も出なんだ。堤防が切れて、水が来ていた。
家の上に上がったりして逃げた。一階のふすまの、引き手の上まで水が来た。板なんかで隠れてるけど、家の中には、今でも、その時の水の跡が残ってる。
ミソもクソも一緒で、ヘドロも流れて来ます。掃除が大変やった。よそから手伝いが来てくれた。親戚も寄ってきてくれた。炊き出しもありました。助けてもらいました。
【昭和28年台風13号の水害概要】
県東側を北東方向に進む典型的な雨台風で、彦根での最大風速は、21m/sを記録した。また雨も数日続き、平野部で100~200mm、鈴鹿や比良の山間部で300~450mmを記録し、県下の主要な河川は軒並み決壊した。
愛知川も数か所で増水氾濫し、五個荘奥町地先でも、右岸側で氾濫した。
体験者の語り
昭和28年9月25日、南東からの風が強く、水が少しずつバシャバシャと堤防を越えだした。男は総出で、木流しなどの水防活動をしてて、浄光寺というお寺の大きな釣り鐘をずーっと叩いて、みんなに避難を促した。
男の人はみな堤防の方に行ってるので、女・子どもと牛は、奥町内の浄光寺に避難しました。牛は、当時「お牛様」いうて、農業には欠かせん、仕事してくれる大事な牛でやので、連れて。
その後、ここではどうしてもあかんということで、もう少し高いところにある、奥村神社の太鼓部屋の2階に移りました。
もう、ほんで、集落の浅井戸がみな、水を吹いて。愛知川の水位が上がると、水がガバガバーッと噴き出してきよんねや。 あれはもうひどかった。
愛知川の堤防が、上の方の野村で200m程決壊したので、奥村は助かった。
その頃の堤防は、砂利やらで盛って造ってるので、水に洗われやすいんです。で、木流しいうて、葉の多い木を切って縄で括って、杭を打って流れんようにして、堤防の前にバサッと置いて、波消しにする。すると、侵食を防げる。
そのために、宮さんの境内に結構な木を植えといて、それを切って使う。もう木がなくなったら、竹でしてました。
ここが破れたら奥村が流されるので、必死でした。
ほんで、村は愛知川の左岸にあるんやけど、対岸の右岸にも奥地先がある。けど、右岸側の堤防は、左岸の村を守るために堤防がないねんわ。奥地先ではないとこまでは堤防をつくって、奥地先のとこは堤防にしとかはらへんかって、水が自然にこっちに流れるようにしてある。村の方の堤防を守るために。右岸の土地を犠牲にしてでも、左岸の、こっちの村を守っていこういうことや。向こうの方は、集落がないから、直接の被害は起こらへんさかいに。
で、昔から大水がきたら、自然とみんな出て、堤防を守るというようなしきたりになったる。
奥村は、河原に一番近い。ほかの集落は、内堤防があって、藪があったり防護柵があったりするけど、奥村はすぐ川に接近してるので、ここで水が向こうに逃げるように対応したったんやわ。左岸側のここで切れたら、奥村は無くなってしまう。壊滅状態になってしまうさかい。
西の湖と干拓地を区切る細い干拓堤防が、決壊。
写真提供:県民
【きぬがさ町中洲地区の歴史】「拓輝豊和-きぬがさ50年のあゆみ」より要約
・もともとは「小中之湖(しょうなかのこ)」という内湖
・第2次世界大戦中に、食糧増産等のため、琵琶湖周辺の40余りの内湖の干拓が計画され、小中之湖の干拓は、戦火の中、学徒動員・米軍捕虜・銃後(直接戦争に参加してない)の老人や婦女の手で造成を実施
・昭和21年3月、当時の能登川町と安土町に区分けされ、入植開始
【昭和28年台風13号の水害概要】
降り続く大雨により、9月25日夕方、愛知川が福堂で決壊。
その水の流入と、当時まだ湖だった大中(だいなか)の湖・西の湖の水位が上昇する中、9月26日早朝に、小中之湖の干拓堤防が、西の湖に隣接する下豊浦(しもといら:現近江八幡市)で決壊し、干拓地に水が流入して一面冠水。わずか1日で元の湖と化してしまった。
体験者の語り(男性~昭和9年11月生まれ)平成29年12月15日聞き取り
雨台風で、上流の永源寺から三重県側に特によう降って、その水が一気に愛知川へ流れてきて、伊庭のしもの福堂地先で堤防が決壊した。上流の種村でも切れたと思う。
その水が大中に一気に流れ込んで、大中の湖の水位が急に上がってきた。小中之内湖はみな繋がってるから、大中の湖やら西の湖やら皆いっしょに水位が上がってきた。
中洲の干拓堤防の裏あたりも、手の届くとこまで水がきてたと思う。下豊浦が切れなんだら、中洲も危ないいうとこまできたった。
何しろ、小中の干拓地のまわりの堤防は、砂をスコップでほうり上げただけやから丈夫やない。波がきたらすぐあかん。戦争で男手がないし、捕虜やら学生やらが手作業でこしらえただけやから。
私は伊庭で漁師をしてた。前の晩から雨が降ってて、「干拓堤防が切れた」て聞いたのが、26日の朝4時か5時頃や。まだずっと雨が続いてた。
伊庭は浸水してなかったので、舟で切れたとこを見に行った。大中の湖からぐるっと、干拓堤防の外側を行ったら、堤防がずぼっと切れて、水が小中へ流れてた。どうしようもない。
城東から中央の方は1mほど浸かってたんで、とにかく水を止めんことにはあかん。
決壊箇所近くの芦刈の人らから畳や床や杭を出してもうて、水を堰き止めはった。堰き止めるもんがないさかい、杭をだーっと打って、床を並べてもたれさせていって堰き止める。それから、中の水をかい出す。
当時は、大中の湖はまだ干拓されてない。湖やった。切れたのは西の湖側やけど、西の湖と大中の湖はつながってるから、愛知川のところからずっと大中の中は湖になってた。そやから、舟でしか渡れへん。
体験者の語り(男性~昭和12年6月生まれ)平成29年12月15日聞き取り
雨台風で、特に永源寺の方で降ったから、ここへ水が来るまで時間がかかる。
明くる朝一番、小中の堤防が切れたから避難せえいうことで、まだ水はきてなかったから、女子どもが城東の山裾の道を歩いて、県道を通って、伊庭の勤設館(集会所)へ行った。伊庭の世話になったんや。伊庭は大変やったと思うわ。炊き出しのごはんやらしてくれはった。
うちの家の中で、床上5cmぐらいの水やった。
土のうを積んでも、水はその上を乗り越えていって、堤防がごそっと抜けたて聞いてる。
ぼくはその時、高校生やった。伊庭の謹節館に家族で避難した。けど水はなかなかけえへんかった。干拓地が満水になるのに、一昼夜ぐらいかかったな。
兄貴が復旧の手伝いに行ってた。学校は休みやなかった。
体験者の語り(女性~昭和10年11月生まれ)平成29年12月15日聞き取り
私は昭和20年に、親と干拓の工事で来てる朝鮮人や。終戦もここで経験してる。
台風の時は小中に嫁いでて、子どもが2人いた。
9月26日朝4時頃、部落で、堤防が切れたから早よ逃げなあかんて言うてはった。避難所は2つあった。私らは国が違うので、浜能登川の方の避難所。
その時はまだ水はきてなかったけど、子ども連れて逃げよう思た。主人は、水害のとこ見てくる言うて、私らには逃げるように言うて、出ていった。
たぶん朝4時頃やったと思う。まだ暗かった。ふとんは全部屋根裏に上げて、何も持たんと、歩いてみんなについて行った。子どもは、下は3月に生まれたとこで半年、上は1歳。
安土山の裾の朝鮮の人の家向いて逃げたんやけど、よその家に世話になられへんゆうて、またみんなで浜能登川の集会所へ行った。朝鮮の人はそっちが避難所やってん。
避難所ではおにぎりをくれはった。水が引くまでしばらく、浜能登川の集会所にいさしてもらった。囲いをしてた。妹は、そこから近江八幡まで仕事に通ってた。
私ら、中洲で一番高いとこに家を建ててるのに、そこで床下まで水がきてた。
体験者の語り(男性~昭和28年8月生まれ)平成29年12月15日聞き取り
災害写真提供
うちの家。舟で何か取りに来たんやろ。このくらいの浸水の時は、もう逃げてたから。
水の跡が、柱にずっと残ってた。親が、また浸くかもしれんから、これを後世に何かで残さなあかんいうてた。
隣に新しく家を建てるときに、家の敷地を、浸水した分かさ上げした。
煉瓦の下の、黄色いラインまで上げてる。
この浸水は、床上ちょっとぐらい。
正面はうちの家。左の作業所の奥に、中洲会議所があった。
こんな浸かる前に、伊庭に逃げた。
まだ水は浸いてないけど、安土山のふもとの城東から、猪子山の裾から、ちょっと高いところを隣りの伊庭の謹節館へ逃げたと聞いてる。僕は、まだ生まれて1カ月ぐらいやったから背負われて。
物心ついてから、親からよう聞かされた。
再び湖になった干拓地。
電信柱の列が、かろうじて、ここに道があることを示している。
干拓地堤防は、スクモという、枯れて土になりかけてる藻の土で盛ってたから、弱かった。スクモは燃料にもできるから、堤防で野焼きしたら、畔が燃えてることがあったって聞いてる。
「葭の詩」中洲開村50周年記念誌よりの抜粋体験
体験者の語り(男性~大正15年11月生まれ)
強い北風とともに、激しい雨が3日ほど降り続いた。
愛知川の堤防が、種村・福堂の2カ所で決壊して洪水が大中の湖に入り増水して、小中之湖の堤防を越えて、干拓地に水が入り込んだ。
安土(下豊浦)の堤防が危険だとの知らせで、中洲の男子全員が現場に急行。
私が着いた時は、すでに堤防の上を水が越していた。土のうを一段積み上げ終えたのが夜中の1時頃だったが、その上を越すようになり、さらに堤防の裏側より水が吹き上がった。
危険を感じ「これはあかん。」と現場を離れたすぐあと、堤防が浮くように崩れてどっと水が入ってきた。一瞬の出来事で、手が付けられなかった。
流れる濁流の勢いは、私たちに復旧の意欲をあきらめさせるほど、激しかった。
堤防決壊を知らせるため、家に急いだ。すでに、4号道路(安土町ときぬがさ町の境目の道路)はひざまで水に浸かった。
食糧確保のため父と二人で、畑のサツマイモや野菜を掘って、家の2階へ運んだ。
水が家に流入するまでに一昼夜かかった。私の家で床より少し上まで浸水し、あたりは干拓前の湖に戻った。
女子どもたちは、謹節館にお世話になり、男たちは家の2階に寝泊まりして、毎日毎日、決壊した堤防の修理に出役した。
全国からポンプが動員されて排水が始まり、ひと月後の10月中ごろには小中之湖の水は干し上がった。台風のあとは晴天に恵まれたので、決壊箇所も案外早く修復できた。
長い間水の中にあった稲は無残な姿で、収穫は皆無だった。私の家も大被害で、今後の生活を思うと暗い気持ちになった。
この被害を境に、若い人たちは出稼ぎに行くようになった。仕事といえば土方仕事で、台風で決壊した愛知川の堤防の仕事に皆といっしょに通った。
その頃は、2・3年おきに災害がやってきて、いろいろと苦しめられた。
体験者の語り(男性~大正13年生まれ)
愛知川の堤防が決壊して大中の湖が満水になり、翌日早朝小中之湖の堤防が決壊した。部落の人がフーフーと息も荒々しく、堤防が切れたので避難するようにと、中洲中を連呼されたことは忘れられない。
妻と子供は一足先に、避難所の謹節館に急がせた。牛は、堤防の上に連れ出す。伊庭の青年団の人が来て、飯米や家具等を2階まで上げてくれた。
謹節館には、水が引くまで1カ月ほど世話になり、炊き出しなどを受けた。
切れた堤防の閉めきり後、ポンプを中洲裏の堤防ぎわに設置し、排水に努めた。
豚は水死、鶏は高所にとまっていた。田舟2艘を合わせて、堤防の牛を山すその少し土地の高いところまで運んだ。
稲穂が見えるようになると、舟の上から刈取るが、真っ白な小米ばかりだった。米の再配給を全戸が受けるが、配給米と白小米を混ぜて食べた。
収入はゼロとなり、トロッコ押しの出稼ぎに出た。
体験者の語り(女性~昭和18年11月生まれ)
9月25日午前5時、三重県に上陸した台風13号が干拓地の堤防を切り、濁流がきぬがさ村を襲いました。私は小学5年生でした。
その堤防は、戦争中に捕虜や学生が、「スクモ」という、藻が枯れて土になりかけてるような土で、スキやクワで造った細いもので、リヤカーがやっと通れるくらいのものでしたから、200ミリを超す大雨ときつい風の前に、ひとたまりもありませんでした。
道がドサッと崩れ、大中の湖の水が流れ込み、その日の夕方には床上1メートル80となり、住民は西小学校や謹節館へ避難し、25日間も泊まり込んで水の引くのを待ちました。
田んぼへ入った水は、スクモ層でできた土を浮かせてしまい、当時の新聞は田んぼが浮いてるのを、写真入りで載せてました。
体験者の語り(男性~昭和17年10月生まれ)
警戒に出ていた父が朝早く「安土で堤防が切れた。」と、帰ってきた。
父に伊庭の謹節館へ逃げるよう言われたが、空は台風一過で、水が浸くなんて少しも考えられなかった。
半信半疑で、着替えと、母が、「これは大事なもんやで番をしなあかんで。」と言って渡したものを持って出た。それは、少しばかりのお金とハンコだった。 「途中で大水がきたらどうするのや。」「そんなに早う浸かへん。」「早う来てや。」「まだまだせんならんことがいっぱいや。」「伊庭の方は水が浸いて通れないらしいので、中央の方から行け。」そんなやり取りをして、私は1人で逃げた。
父と母と兄は、それから家財や畳を中2階へ上げていたらしい。
中洲は浸水の様子もなかったが、謹節館に着いてみると大勢の人がいて、堤防の切れたことが現実となった。
みじめさと恥ずかしさと、集団生活での子ども心の楽しさの入り混じった避難生活が始まった。
体験者の語り(男性~昭和17年生まれ)
小学生の時、干拓堤防が決壊し、家が床上30センチほど水に浸かった。
避難していた伊庭の謹節館から学校に行った。中洲からより通学距離が近くなったし、皆といっしょに泊まれるので、子どもたちは喜んでいた。
最初はすぐにでも家に帰れると思っていたが、なかなか水が引かず、大徳寺に宿泊場所が変わったと思う。
水害の直後だったと思うが、堤防から見ると、中央地区は土地が低いので、屋根だけしか水の上に出ていなかった。
浮かんでいる電柱に、蛇やカエル・イナゴ・バッタ等がしがみつくように上っていて、蛇は近くに好物のカエルがいるのに、食べることも忘れて動かずにいたことを覚えている。異様だった。
干拓する前の小中之湖地区周辺。
この図のうちの弁天内湖と伊庭内湖が干拓されている。
引用:「小中之湖地域用水機能増進事業」琵琶湖干拓小中之湖土地改良区発行
「スクモ」
戦前戦後物資不足の折に、日常生活の燃料等として使われた。
比較的水深の浅い場所等に生えた水草が腐植し泥炭化したもので、泥土状で堆積していた。
提供:きぬがさ町中洲自治会