【荷物は高いところへ】
大雨の際は、貴重品は2階へ上げる。貯蔵米は、出来るだけ高いところに保管する。
今年度から、戦後の被災状況を記録化すべく、まちづくり事業として取り組み中。
【北風】
北風が吹くと、水位が1メートル上昇し、水捌けが悪くなる。
【ドロモ】
集落内の川掃除「ドロモ」をする。川の藻を刈り、泥もすくい、干して堅くなったものを肥料として、田んぼに撒いていた。
【伊吹の風】
伊吹が吹いたら、水が増す
【吹き戻し】
台風が過ぎ去ってからの、吹き戻しの方が怖い
【西を通る台風】
「琵琶湖の西の方を通る台風は怖い」と、言われていた
【佐生の水害対策 土地規制】
東近江市佐生(さそう)町集落内には瓜生川が流れ,昭和60年代に河川改修が行われた。
河川改修が行われる以前、佐生は土地利用の工夫で、洪水から集落を守ってきた。
1:住宅地の対岸の堤防の一部を低くし、洪水時にはそこから水を田んぼに流す。この堤防部分は集落の共有地と定められ、住宅の方へ水を流さない仕組みがある。
2:共有地に定められている堤防部分には、水により堤防の土が逃げて堤防が決壊しないための対策として竹が植えられていた(防備林)。
3:共有地に定められている堤防部分から、水が溢水した場合、ダムのように、一時的に水を溜める田んぼがある。特に田んぼ内でも崩れやすい危険な箇所は、集落の共有地として定めていた。また、川縁には松の木を植え、護岸されていた。これらの田んぼは春先に1~2回、毎年2~3回は冠水する。
4:遊水地として、一時的に水を溜める田んぼの地域には、現在3軒民家がある。
これらの人家は、以前米屋を営んでおり、水車をその場所に建てるために家が水に浸かることを覚悟して住まれていた。
ここについては、田んぼへの水の流れを阻止しないために、地盤を上げてはならないという規制がある。これは、明治の書付と、昔の町長の判子がついた連名書から確認でき、現在も契約書があるという。
これら4つの土地利用の工夫による集落の「しばり」で集落を洪水から守る対策があった。
提供:東近江市佐生町自治会
【川掃除「ゆた」】
佐生町内を流れている瓜生川の掃除をすることを、「ゆた」と呼んでいる。川掃除をすることで、ゴミや藻、草を取り除き、川の流れを良くする。
【石垣で浸水を防ぐ】
町内でも、地盤が低いところがあり、過去に水が溜まった場所がある。その周辺に住む人たちは、浸水対策として石垣で地盤を高くしている。
【こうもり傘を活用】
水害の時は水が濁り、水面が見えないため、とびぐちやこうもり傘をついて歩いた。
【川は集落の外側に】
川を付け替える時は、絶対に、佐生集落内に通さず、集落の外側に通さなあかんって、やかましい言うた。
【竜巻の発生】
佐生山を一部削ったことにより、風道が変わった。そのため、集落内で小さい竜巻が発生し、被害がでている。
【切石】
日野川との合流点付近にある法教寺川の右岸側に、水害時に集落に溜まった水を排出する、水害用の切石の樋門が設置されていた。水害時には、消防団が樋門の開閉を管理し、切石の石を倒して水を排出した。
【受け堤】
現在の県道に、かつて小さな受け堤が設置されていた。
受け堤の役割は、
1:上流から流れてくる水を防ぐため
2:東沢砂川の決壊を防ぐための調整用堤防
とされていた。その堤防で受け取った水は、法教寺川へ排水される。昭和28年台風13号の時には、受け堤に土嚢を置くなど水防活動が行われていた。
【東沢砂川】
東沢砂川は、“警戒する場所”として認識されていた。
【法教寺川右岸堤防】
法教寺川の日野川との合流部分、右岸の堤防が一部低く設計されている。これは、下流の水害被害を軽減するためである。
撮影:滋賀県
【石垣】
人家は石垣等で地盤を高くし、水害に備えている。
【霞堤】
葛巻には、霞堤がある(名称:上原)。
場所:法教寺川右岸 撮影:滋賀県
【避難判断の目安場所】
1:“井登り”する際に休憩する場所(日野川橋下)がある。
その場所に少しでも水が乗り始めると、それが、避難の準備をする合図とされていた。
そして、そこに自生していたネムの木の根本まで水が来たら、いつ堤防が決壊するか分からないため、日野川橋周辺には「近づかない、行かない」と伝承されていた。
2:法教寺川右岸(樋門がある付近)。
右岸堤防ブロックの上から一段半まで水位が来たら、鐘を鳴らし、避難準備。
【堤防の見廻り】
堤防の見廻りには、3人体制で綱を持って行くこと。と、先人から伝承されている。(いつ堤防が決壊するか分からないため)
撮影:滋賀県
【鐘】
避難や危険を知らせるため、鐘を叩きながら集落内を練り歩いた。
【樋打番】
日野川の水を竜王町に流すため、葛巻の下流から2カ所、用水路が流れていた。
大水のとき、葛巻は用水路の樋門を閉める権利を持っていた。その役目は、樋打番と呼ばれていた。
【荷物の保管方法】
大水になると、ツシや屋敷の高い所に食料や大事なモノを運んでいた。
撮影:滋賀県
【水点】
伊勢湾台風の水位痕が残っている。
場所:東近江市葛巻
【名神高速道路の計画】
伊勢湾台風後、名神高速道路の計画が持ち上がった。葛巻は「水害リスクが高くならないように、全面高架にするよう」訴えたが、道路公団側は「全面高架する資金がない。名神高速の琵琶湖側に法教寺川の堤防があるため、高架の絶対的な必要性が感じられない。」という理由から拒否した。
協議の結果、次の条件で名神高速の建設を受け入れることとなった。
1:法教寺川右岸堤防にある樋門(切石)を近代的な樋門につけ替えること。また、樋門を少し大きめにすること。
2:全面が無理なら、8mだけ、高架にすること
3:日野川の河床を2m下げること(葛巻から麻生区間)。日野川の砂利を名神高速の盛土に使用すること
【堤防の管理】
愛知川流域の各字が区域を決めて、堤防の管理をしていた。区域内での堤防の管理は、役員の責任であった。昔は、堤防に各字の管轄を示す石碑があった。
【水の流れをせき止める流木】
種地先の愛知川は、川幅が広い。大水の時には、直径2m、長さ5~6m位の丸太が多量に流れてきた。丸太は、堤防端の竹藪に突きささり、水の流れと風の力で向きを変え、川に横たわり、堰のようになってしまう。
流木は、流れをせき止めるため、危険である。
【下蔵】
公民館の蔵には、水防道具(なわ、かます、スコップ、とびぐち)が置いてあった。上蔵には、米が貯蔵されていた。
【呼びぶれ】
非常召集の時は、村の中心にある公民館の太鼓部屋から、危険を知らせるために鐘を「カンカンカン」と早く叩いた。そのほかに、普請を行う時の普請太鼓もあり、集合や休憩の合図として使われた。
【霞堤】
明治時代に決壊した後、大きな水溜りになっていた場所があった。その後、霞堤がつくられた。
【本行寺】
本行寺は他の場所に比べて、地盤が高い。明治時代に愛知川が決壊した時、住民は本行寺に避難した。昭和28年の台風13号の時は、本堂に上がる石段の三段目くらいまで、水が来た。
【堤防の上に水が来たら危険】
いつも雨量に注意していた。
しかし、雨が少なくても、風がきついと波が立ち、水が堤防より高くなる。堤防の上に水が来たら、すぐに堤防があらわれ(削れて)、堤防が崩れていく。
そのため、危険かどうかは、川原に出て確認をしていた。
【蛇かご】
堤防がえぐれている場所には蛇かごを設置し、堤防を補強した。
注意した場所は、滋賀三谷セキサン(株)の下から、愛知川が大きく曲がるところあたり。
【北風と増水】
先人からの教えは、「北風の暴風雨が吹きつけたら、愛知川が増水する」。
昭和28年の台風13号の時は、北風がきつかったため、先人の教えを思い出し、堤防の警戒に向かった。
【昭和28年水害の想出集】
昭和28年台風13号の愛知川決壊によって、種町は大きな被害を受けた。
当時の水害の記憶を残すために、昭和58年に老人クラブによって『昭和28年水害の想出集』が作成された。水害に遇った35人の貴重な体験がまとめられている。
【ごか】
愛知川の葉枝見橋付近は、川が曲がっていて一番危険な場所。
大水の時は、この場所に愛知川の左岸側の5つの在所(今、小川、躰光寺、川南、阿弥陀堂)が集まり、水防活動を行った。この場所を「ごか」と呼んだ。昔は堤防に、「ごか」を示す石碑があった。
【八宮赤山神社】
明治29年の洪水では、琵琶湖の水位が上昇し、琵琶湖周辺の多くの市町村に被害をもたらした。神社の境内には、その時の水位を示した石碑がある。
【区長(自治会長)】
奥町は愛知川のすぐそばに集落があり、ひとたび愛知川の堤防が決壊すれば、集落が壊滅的な被害をうける。そのため、一番大事な堤防を守ることが、区長(自治会長)の仕事である。
【木流し】
昔の人はみんな経験していたので、その人達に習って木流しの方法を覚えた。また、木流しに使用するために神社の境内に木や竹を植えて、緊急時に対応できるよう、対策をとっていた。
【山林を犠牲に】
愛知川の右岸側には集落は無く、奥町の山林のみだったため、先人が右岸へ水が溢れるようにした。
【霞堤】
奥町には、先人がつくった霞堤がある。
【備え・心構え】
ちょっとでも雨が降ったら、みんな堤防に行って川の様子を監視している。
大水が出たら、みんなが出て堤防を守るということが言い伝えられている。
【夜台風】
流れてきた泥砂が、月の光のひかりに照らされて、水の上が泡で真っ白だった。とても恐ろしかったが、堤防を守るためにみんな必死だった。
【決壊箇所】
その時に一番堤防が弱かったところが、決壊する。どこで切れるかは、紙一重だった。
【「奥村堤」の会】
奥町では平成22年に、以下を目的として、「奥村堤」の会として組織を立ち上げた。
1. 先人が堤防を守るためにしてくれていた、自主防災を継承すること。
2. 水害の怖さが風化している状況で、水害を知らない若い世代にも、水害の怖さや備える知恵などを伝承していくこと。
3. 集落の人が、川に入って掃除などをすることで川を身近に感じ、また、堤防があることによって集落が守られているということに気づいてもらうこと。
4. 安心安全の基である、左岸堤防の護岸整備推進と、堤防強化を奥町民が推進すること。
【小幡町での水害】
「わしが小学校の時が一番酷かった、よう水浸いたんやわ。(近江鉄道五個荘)駅やったり、床下浸水はしょっちゅうやったわ。川の水が氾濫してな、排水がきかんやろ。ここの大同川がもういっぱいになってしもて。するともう、低いとこへたまるのはしゃあない。」
【木流し】
「わしが子どものは、消防団はすぐにようけ行って、河原の木や松やらをバーッと川に放り込まはった。怒られたで覚えてるわ。
松をダーッと切って、ここんとこに放り込まはったな。堤防から。」
【切石堤防】
水害時に、板をはめて水を止めるための溝の入った切石が、堤防に残っている。
【避難】
「川の水が増えた時には、長光寺へ行け」って、小さいころ母親によう言われた。
【小幡町の地形】
集落内で約1mほど高低差があり、地盤の低い場所にはいつも水が集まってくる。そのため、堤防決壊などがなくても、床下浸水などの被害が出ている。