提供:奥田修三
場所:安土城址観音堂
提供:奥田修三
体験者の語り
【人命や財産に係わった水害】
明治29年9月3日から12日の10日間の雨により、琵琶湖は過去最大の水位を観測。湖岸部の集落が、この琵琶湖の水位上昇に伴い、水害を経験した。
安土城の麓にある安土町下豊浦は、西の湖の湖岸に位置する集落で、明治29年の琵琶湖洪水の被害を受けた地域。明治29年の時は、JRと西の湖の間の集落のほとんどが水没し、土砂災害を受けた地域もあった。
30年前までは、水害当時から建てられていた住居に、地面から1.3mほどの高さに、浸水した水位の爪痕を確認することが出来たそうだ。
また、琵琶湖洪水は、下豊浦の人々にとって人命や財産に係わる水害だった。この水害を忘れないために、下豊浦の集会所には、当時の水害の写真が飾られている。
提供:奥田修三
場所:安土町常楽寺
体験者の語り
【Aさんが聞いた 先人から聞いた水害話】
田んぼは冠水したけれど、穂先は浸からなかったので、収穫できたそうです。
私の家は、道路より1mほど高いところに建っていて、石垣のところまで水が来たと聞いています。
提供:奥田修三
場所:安土町(下豊浦)
体験者の語り
県民男女5人(昭和6年・昭和16年・昭和21年・昭和23年・昭和30年)
【明治29年9月琵琶湖洪水の概要】
この年は非常に多雨でありました。1月から8月までにすでに1,637ミリと平年の1年分に相当する雨量が観測されていました。この激しい降雨が続き、9月7日早朝から雷を伴った一大豪雨が襲いました。その雨量は、わずか10日間で1,008ミリという平年降水量の6割強が記録されました。しかも24時間最大は684ミリ、4時間最大は183ミリと、驚異的な記録を更新しました。
『座談会メンバー5人』
【琵琶湖大洪水の記憶、明治生まれの人からの伝承】
Aさん:
おばあちゃんから明治29年の琵琶湖大洪水の話を聞きました。当時、おばあちゃんはまだ子どもで、大きな台風が襲ったと語っていました。その月は雨が続いており、琵琶湖からの水が住宅地まで浸入し、百々橋の舟着き場まで浸水したそうです。平屋は床上まで浸水し住めなくなりました。水位が屋根近くまで上昇したので、おばあちゃんは、つし(農家で天井や屋根の下に作った物置き場)の上に避難したようです。その後、知り合いの家に避難し、しばらくやっかいになっていて同居生活を送りました。
Bさん:
当時の洪水被害写真を集めてくださった方から、小学校の校長室に飾られている水害写真は、私の家のものだと教わりました。
曾祖父の家族が、現在の私の家と同じ位置に住んでいて、洪水の被害にあったのです。
当時の曾祖父の家は湖面の近くにあり、横を流れる川を田舟で移動していました。
田植えの段取りでは、水の上を行き交う舟に稲苗を載せて運んでいました。この地域は生活空間に水が常に存在するため、雨の日は水量が増えて大変でした。
Cさん:
台風や大洪水だけでなく、少し大きな雨が降るだけでも浸水するので、水の恐ろしさを痛感させられました。 しかし、この地域は洪水が発生する一方で、風の影響がとても大きく、伊勢湾台風など風関連の災害が皆さんの頭を悩ませています。
私の実家も百々橋の近くに位置しており、琵琶湖大洪水によって浸水しました。洪水被害の写真を見ると、浸水の深さは約3.5メートルだったと推測します。それ以降、旧南郷洗堰が出来てからは、琵琶湖からの水害は起きませんでした。しかし堤防が切れたため、昭和28年には再び浸水しました。田んぼの収穫時期に泥で稲がダメになりました。さらに、泥に浸かった稲は臭くなり、その処理がとても大変でした。
Dさん:
琵琶湖大洪水では、近くの鳥居まで琵琶湖の水が押し寄せて来て、多くの住宅が床上浸水となり、避難を余儀なくされました。少し標高が高い東南寺まで避難した人もいたそうです。 大きな庄屋では、川から舟が家まで入り込み出入りをしていたという話も聞きました。
舟着き場の上には倉庫があり、そこから舟で琵琶湖に出て荷物を次の地点へ運んでいました。また、土橋の石段下まで水が上がり、そこに舟がつながれていて、その場所も避難所になっていたという話もあります。舟で向かい岸へ行く際には逆流の中を渡って避難したことと、繖山(きぬがさやま)の地滑りが発生した際には下にあった地域が土砂で埋まるなど、非常に厳しい状況だったことを覚えているようです。
Eさん:
おばあさんからよく明治29年の洪水の話を聞いていました。琵琶湖大洪水は、百々橋まで浸水し、舟で避難所に移動しました。
常楽寺地区の水害の写真で、左側の家は10数年前まで現存していて家の柱には浸水した高さにマークを付けていたそうです。
家の隣には通称「盆川」と呼ばれる川が流れていて舟で行き来していました。
【座談会のメンバー(伝道者)からのメッセージ】
○小学校の校長室には、洪水の被害写真が地域の人によって展示されています。当時、カメラを持つ人は少なかったようですが、数人は持っていたようです。
○過去の災害についての伝承・言い伝えは非常に大切です。私たちは小学校などで説明し、その事を広めています。この地域には大きな川がないため、水害への意識は希薄です。だからと言って水害が少ないからと安心してはいけません。小さな川でも浸水が起きる可能性があるからです。
○昭和34年の伊勢湾台風の時は、風がとても強かったです。この地域は風が強い特性があるため、伝統的に住宅は低層で建築され、二階建てはあまりありませんでした。
○この地域は風が強いため、風が怖いという意識があります。また、この地域の土質は泥が溜まりやすく、それが流れてきます。
○過去の水害では、稲や葦などが根こそぎ流され、腐敗して臭くなることがありました。
○現代での移動は軽トラックが主流ですが、当時は舟での移動が主流でした。 この地域の人は舟の1艘は必ず所有していましたし、現在の60代以上の人たちは田舟を扱い、舟を動かすことができました。舟を操作するには竿を使った経験が8年、櫓は3年必要とされています。
○舟の中で赤ちゃんを産んだ人もいたらしいです。(この地域の人はみんな舟の中で生まれた。これは冗談やで!)
○琵琶湖では晴れた日でも、昼から風が出るため舟での移動は難しく朝に移動し早く帰るようにしていました。
○南郷洗堰が出来る前までは、琵琶湖の水位は天に任した時代でもあった。
○昭和28年9月の台風で堤防が破壊され、浸水が発生しました。 その時に緻山(きぬがさやま)の上から小中の田んぼが水没していた風景を見ました。田んぼの稲は浮き上がり家も浮いているように見えました。
○今日は、水害の記憶を語ることができて良かったです。私たちは伝承を後世に残す最後の世代です。
【地域の特徴・特産】
・私のおじいさんは明治生まれで漁業組合の元締め役を務めており、組合の会合で地元料理の「じゅんじゅん鍋」が得意でよく作っていました。
現在、私はNPO法人西の湖のじゅんじゅん部会長として、観光舟で提供する郷土料理「じゅんじゅん鍋」を作って食べていただいています。この料理の名前の語源は、スコップの上で焼いているときの「じゅんじゅん」という音からとられています。 この地域では基本的に鍋に入れる肉は鶏肉を使いますが、地域によって使う材料が異なります。
・私は平成7年には舟の免許を取得し、以後60歳から現在まで西の湖観光の環境和船の船頭を務めています。びわ湖は良いですよ!湖水は北に向かうほど美しさが増します。
【当時の地域住民が避難した場所と被害場所】
〔沙沙貴(ささき)神社〕
沙沙貴神社は、この周辺地域を支配していた名族、佐々貴山公が創設したもので、孝元天皇の嫡子大彦命の後裔とされています。
その子孫が祖先を祀ったのが現在の沙沙貴神社です。
佐々木源氏は宇田天皇の皇子、敦美(あつみ)親王の玄孫で、彼らが近江国佐々木庄に下り、佐々木姓を名乗ることから始まりました。
〔浄厳(じょうごん)院〕
織田信長が佐々木六角氏の菩提寺「慈恩寺」跡に浄厳院を創建しました。ここには金勝山の浄土宗の僧、誉明感上人を招きました。
〔東南寺〕
東南寺は天台宗の寺で、天海大僧正により再興されました。
〔百々橋(どどばし)〕
安土城へ至るための橋で観音寺城百々橋は、安土城の外堀に架かっています。
〔繖山(きぬがさやま)〕
繖山は標高432.7mで、ここから西に下ると小中の湖があります。
提供:県民
現在のじゅんじゅん鍋