体験者の語り
昔ここの勅使野橋(ちょうしのばし)が、流れたんや。それで上のほうに避難したもん。
うちらみんな水入ってきたわ。家の玄関まで水が入ってきた。荒川橋も木の橋やってんけどな、流れるのは簡単やわ。わしらあの時、土のう積みに行ったで。
荒川も野洲川も、ものすごい水が出とってんわ。「とにかく分校へ逃げろ!」ということで、わしら逃げたけどよ。
三雲の人はほとんど来とった。自警消防団が頼りで、消防団同士で連絡取り合ってはったけど、そら恐ろしかったわ。
【水害状況】
野洲川の決壊により、小字「新開(しんがい)」の水田が浸水し、土砂が流入した。
現在の国道1号とJR草津線の線路が堤防の役割を果たし、浸水被害は新開のみであった。
上流からゴミや木が流れてきて、橋で詰まり、勅使野橋(ちょうしのばし)が流出した。
その結果、荒川の水が溢れて住宅地に流れ込み、床下浸水した。勅使野橋と同じように荒川橋も流失し、荒川の水が住宅地に流れ込んだ。
夜になって雨が降り出し、自警消防団が地域を見廻り、周辺の住民に避難を呼びかけた。消防団同士で連絡を取り合い、自警団が、「これ以上雨が続くと危険だ」と避難を呼びかけていた。
当時の三雲小学校の分校(現・三雲児童館)に避難し、一晩を過ごした。
勅使野橋付近の住民は、家族や牛を連れて高台へ避難した。
体験者の語り 男性(昭和7年生まれ)
【石部の水害】
体験者の語り 男性(昭和7年生まれ) 当時役場勤務
【自分らの在所や自分らの資産を守ることは、当たり前やったんや】
その当時は、毎年1つや2つ台風がきて当たり前やったんや。ただ、被害が大きかったか小さかったかや。
そやから、稲でも今は9月の末になったらほとんど刈り取られるけど、昔やったらまあ10月に入って、運動会も終わり、それから稲刈りちゅうなもんや。そやから、台風が来たら、なんとか家も田んぼも守ろう思て、農家も一生懸命やった。刈り取る前やから。
長雨になると河川が氾濫するさかいに、たとえば宮川やと宮川沿いの人は、いつ切れるかゆうことで、ビクビクしてはった。雨が降ったら、川をぐるぐるぐるぐる見て回ってはった。そら、人ごとやない、自分のことやさかい一生懸命やわ。自分の家が危険かどうか、ずっと前から、長い間見て回ってはるし、田んぼでも低地の人は見に行かはるわ、蓑(みの)着てよ。
まあ、自分らの在所や自分らの資産を守ることは、当たり前やったんや。堤防が切れんように消防団に出てもろたり、木流しをしたり、杭を打って土のうを積んだりして。みんなそれぞれが、がんばってな。
復旧作業は、地元請負でやってた。石部の場合、裏が山で急傾斜が多い。水害の他にまだ、山腹の崩壊やら林道の崩壊もあったしな。
道も、そら山道は急なとこやったんや。ほで、あの時分、車てあらへんし、資材は荷車で、ブロックを3つほど積んで牛に引っ張らしてな。けど、牛だけではなかなか上がりよらへんで、かじ持ちながら、端(はた)の草むしりもって、牛を追うて上がっていったわ。
役場への連絡は、みな自転車か歩いてやでな。