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令和6年(2024年)1月(第189号)
今月28日は、「世界ハンセン病の日」です。ハンセン病の患者は、かつて国の政策により人里離れた療養所に入所させられ、社会から強制的に隔離されました。平成8年(1996年)に「らい予防法」が廃止されて隔離政策は終わりましたが、現在も全国に14か所の療養所があり、そこで暮らしている方々がいます。
今回、岡山県にある国立療養所邑久光明園(おくこうみょうえん)を訪れました。施設の様子を紹介しながら、ハンセン病の患者が受けた人権侵害について解説します。
ハンセン病は、かつては「らい病」と呼ばれていました。感染力は弱く、非常にうつりにくい病気ですが、有効な治療薬がなかった時代には、身体の一部が変形するといった後遺症が残ることがありました。そのため、江戸時代には世の中から隠れて暮らしたり、放浪の旅に出たりする患者が多くいました。
明治時代に、諸外国から「患者を放置している」との非難を浴びたことから、国は明治40年(1907年)に法律を制定し、放浪したり路上生活をしたりするハンセン病患者を療養所に収容しました。この時は、救護者のいる患者は対象にならなかったため、収容した患者はハンセン病患者全体の3.6%程度でした。
国立療養所邑久光明園は、岡山県瀬戸内市の長島という小さな島にあります。かつては離島でしたが、現在は橋が架けられていて路線バスも乗り入れています。
邑久光明園の歴史は、大阪にあった外島保養院(明治42年開院)から始まります。外島保養院は海辺にあり、周辺に人家がないことから格好の地として選ばれました。しかし、昭和9年(1934年)に近畿地方を大型の室戸台風が襲い、5~6mの波が外島保養院に押し寄せました。施設は壊滅し、多くの入所者や職員等が命を落としました。
被災後、昭和13年(1938年)に岡山県の長島に療養所が移転し、邑久光明園が誕生しました。
昭和6年(1931年)に「癩(らい)予防法」が成立し、在宅患者に対しても強制的な隔離が始まりました。患者のいない県を目指すとする「無らい県運動」が官民一体となって進められ、「ハンセン病はとても怖い病気である」という誤った認識が人々の間に広まりました。患者の居場所は、療養所以外にありませんでした。
第二次世界大戦が始まり、光明園の入所者数は急増しましたが、当時はわずかな職員しか配置されておらず、食事運搬から入所者の火葬まで、療養所の運営に必要な業務は入所者が行っていました。実態は療養所ではなく、収容所にすぎませんでした。
療養所内では入所者同士の結婚は認められていましたが、子どもをつくってはいけないという厳しい条件がありました。そのため、不妊手術や人工妊娠中絶など入所者の尊厳を傷つける行為が行われていました。
また、親の不幸があっても外出許可がもらえないことがありました。そのため、無断で海を渡って島から逃走する入所者もいました。しかし、帰っても故郷の家族から「あなたは死んだことになってるから葬儀に出られたら困る」と言われ、療養所に戻らざるを得なかった人もいるそうです。
逃走を図った人は、「監禁室」に入れられました。食事は1日1回で、拳よりも小さいにぎり飯2個とたくあん一切れ、梅干1個と水であったそうです。
療養所には、入所している子どものための小中学校がありました。約60年前に閉校となりましたが建物は残っており、現在は昔の夫婦舎(夫婦が生活した部屋)を再現した部屋があります。
夫婦舎は、昭和26年(1951年)に建てられました。それまでは、夫婦は女性の大部屋へ男性が通うことを余儀なくされており、複数の夫婦がひとつの部屋で過ごしていました。夫婦舎が誕生し、初めて夫婦だけのプライベートな空間を手にした人々の喜びは、計り知れません。
子どもたちは、学校の前にある双葉寮で生活していました。多い時は70名ほどが暮らしていたそうです。寮は学校の閉校とともに閉鎖され、現在は外観のみが残っています。
邑久長島大橋が架かるまでは、学校の近くにある木尾湾の二つの桟橋が邑久光明園の玄関でした。
手前は「患者桟橋」と呼ばれ、収容されてきた患者が上陸した桟橋です。奥は「職員桟橋」と呼ばれ、職員の通勤や来客者等の玄関として使用されていました。
患者は、「職員桟橋」に近づくことはできませんでした。
こちらは「瀬溝(せみぞ)桟橋」です。奥に見えるのは本土です。ここは本土までの距離が近く、渡し場として使用されていました。
狭い海を渡って逃走する者がいないか見張るため、近くに詰め所が設けられていました。ただこの海峡は潮の流れが速く、泳いで渡ろうとして流されて亡くなった人もいるそうです。
桟橋は台風の被害により先端部が損傷し、現在は半分以下の長さになっています。
ハンセン病は、かつて大風子油(たいふうしゆ)(大風子という木の種からとった油)を溶かしたものを注射して治療が行われていましたが、効果はあまりありませんでした。
戦後、画期的な治療薬「プロミン」の注射が始まり、病気が完全に治るようになりました。不治の病だと思われていたハンセン病が治る病気になったことから、「プロミン革命」という言葉が生まれるほど、人々に希望を与える出来事となりました。
しかし、それでも国は患者の強制隔離を続けました。
入所者たちの強い要望により、19年かかって昭和63年(1988年)に本土と長島をつなぐ「邑久長島大橋」が架けられました。
本土と長島の距離は最短で22mですが、橋が架かるまでは本土は手の届かない遠い世界でした。橋の完成がもたらしたものは大きく、「人間回復の橋」と呼ばれています。
車いすを利用されている方が通行できるように、歩道の幅が広く作られています。
「患者」と呼ばれたハンセン病の患者は、とっくの昔に病気が治り今は「元患者」・「入所者」と呼ばれています。邑久光明園の入所者数は、多い時で1,000名以上おられましたが、現在は58名(令和5年11月現在)です。平均年齢は88歳で、高齢化が進んでいます。亡くなられた人の多くが、遺骨の引き取りもなく療養所内の納骨堂に静かに眠られています。亡くなってもなお、故郷に帰れないのです。
療養所内では、夏祭りやカラオケ大会、芸術作品の展示会など、年間を通して様々な行事が開催されています。夏祭りには多くの入所者が参加され、地元の方や県外の方との交流の場となっています。
筆者が訪問した際はちょうど文化祭が開催されていて、入所者の制作された芸術作品がたくさん展示されていました。「○○さんに負けたくない」と、毎年熱心に制作されているそうです。
入所者が多かった時代には、たくさんの趣味の会があり、音楽好きによる楽団や囲碁、将棋を楽しまれている方もいました。病気が進行して手や指が変形した人は、スプーンで碁石をすくっていたそうです。
療養所を訪れて、入所者への人権侵害が行われていた現実を目の当たりにしました。監禁室の壁にあった「悲しい」「辛抱」といった落書きを見て、どれほど辛い思いをされたのだろうと胸が苦しくなりました。家族と引き離され、故郷に帰ることも許されない苦しみは、想像を絶するものがあります。
また、亡くなった入所者の多くが解剖されていたことや、多くの方が名前を変えて暮らしていることを知りました。国の誤った政策のために、どれだけの方の自由な人生が奪われたのでしょうか。
現在、療養所の入所者は自由に療養所の外で生活することができます。しかし、平成15年(2003年)に熊本県のホテルで入所者の宿泊が拒否される事件が起こりました。このことが報道で取り上げられると、なんと療養所に対して全国から誹謗中傷の電話や手紙が殺到しました。ハンセン病に対する差別や偏見は未だに残っており、入所者の社会復帰を阻むひとつの壁となっています。
ハンセン病に対する差別や偏見をなくすためには、ハンセン病の問題について関心を持ち、ハンセン病について正しく理解するとともに、それを周囲に伝えることが大切です。入所者やその家族の方々が社会で安心して生活できるよう、私たちに何ができるか考えてみましょう。
また、ハンセン病の問題を教訓として今後の生活の中で生かすことも大切です。新型コロナウイルス感染症の拡大時を振り返ると、各地で感染者等に対する誤解や偏見に基づく嫌がらせや誹謗中傷が発生しました。これは、ハンセン病の問題と共通するものがあり、教訓が生かされていないと言えます。
差別の歴史を繰り返さないという意識を一人ひとりが持ちましょう。
邑久光明園では、見学を受け付けています。資料展示室を見たり、フィールドワークをすることができます。見学には事前申し込みが必要です。詳しくは、邑久光明園のホームページをご覧ください。
アクセス
○公共交通機関(滋賀県からの所要時間:約4~5時間)
岡山駅下車、赤穂線に乗り換え邑久駅で下車
邑久駅から瀬戸内市営バス「愛生園行き」に乗車し「光明園」で下車
または邑久駅からタクシーで約20分
○車(滋賀県からの所要時間:約3~4時間)
岡山ブルーライン虫明ICより約5分
また、邑久光明園による人権パネル展が実施されます!
日時:1 月 25 日(木)~28 日(日)10:00~16:00
場所:ブルーライン黒井山(岡山県瀬戸内市邑久町虫明)
・15日~21日 防災とボランティア週間/17日 防災とボランティアの日
「防災とボランティアの日」および「防災とボランティア週間」は、防災、減災、災害対応のためのボランティア活動に多くの人が取り組み、公助と連携した自助・共助の取組みがより広がることを狙いとしています。日頃から災害時の連携・協働の取組みを考え、地域の中で防災に携わる方々の間の連携を深めましょう。
・28日 世界ハンセン病の日
昭和29 年(1954 年)、フランスの社会運動家、ラウル・フォレローさんが提唱。毎年1月の最終日曜日を「世界ハンセン病の日」としています。この日には、世界各地でハンセン病に関するさまざまな啓発活動が行われます。