約2万6千年前から人々は湖辺に住み着き、琵琶湖との関わりの中で独自の文化と歴史を形づくってきました。水中遺跡、城や祭りから、各時代の人と琵琶湖との関わりを探ります。
人々は琵琶湖の水と大地の恵みに恩恵を受ける形で、2万6千年前の後期旧石器時代から湖辺に住み着き、以来、各時代を通じて琵琶湖との関わりのなかで独自の文化と歴史を形づくってきました。人々の営みは、水辺や湖底にたくさんの水中遺跡として残されました。湖中に積荷と共に沈んだ船や、水への祈りとして物を捧げた場所、地震による陸地の隆起・沈下、または水位の上昇により水没した集落などの遺跡があります。
大津市晴嵐一丁目付近の琵琶湖底には、約1万年前~約5千年前(縄文時代早期~中期)の淡水貝塚を中心とした粟津湖底遺跡があります。貝塚は、当時の人々が食物の残りカスなどのゴミを捨てた場所と考えられ、発掘調査ではセタシジミを主体とする貝殻や魚骨・獣骨とともにクリやトチなどの木の実の皮などが大量に出土しました。粟津貝塚の調査によって、狩猟中心の暮らしと考えられてきた縄文時代が、木の実などをより多く食料とする暮らしであったことが明らかになりました。
滋賀県内には約1300箇所の城があったといわれており、全国でも屈指の多さを誇ります。その多くは山に築かれたものですが、織田信長の登場以降、琵琶湖の支配を目的に湖岸に大きな城が築かれるようになりました。信長は、坂本城(大津市)、長浜城(長浜市)、大溝城(高島市)、安土城(近江八幡市・東近江市)と琵琶湖を取り囲むように拠点となる城を配置し、琵琶湖を利用する人の移動や物資の輸送を行う湖上交通を強化しました。
滋賀県では大津・彦根・長浜・近江八幡など湖岸部に主要な町が発達してきました。特に規模の大きな祭りはこうした湖岸の町で催されています。江戸時代から続く「大津祭」で使われる曳山は、三輪の組み立て式で、豪華な飾金具や外国製の見送幕などの懸装品で飾り立てられ、曳山に人形からくりがのるのが特徴です。これは、大津が、琵琶湖の水運の港町と東海道の宿場町として繁栄し、経済力を持っていたことを表しています。
このページは、2018年3月に滋賀県が発行した「びわ湖を学ぼう」(琵琶湖ハンドブック概要版)を一部修正して掲載しています。一部の画像は琵琶湖博物館提供。
原文はこちら(URL:/ippan/kankyoshizen/biwako/11346.html)
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