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守山市 昭和34年伊勢湾台風

水害履歴

位置図
位置図
水害写真

今浜町(美崎地区) 昭和34年9月伊勢湾台風

位置図
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位置図詳細

昭和30年頃の、美崎の川の流れと、北川へ通じるただ一つの通路大川橋の位置

位置図写真

石碑「旧野洲川のすがた」より美崎部分

撮影:滋賀県


今浜町(美崎北川地区)

【今浜町美崎地区の地理的状況】

 かつての野洲川は、中流域の川幅が広くて、下流域になるほど狭くなっていた。下流で北流と南流に分かれ、さらにいくつもの支流に分かれて氾濫・決壊を繰り返して蛇行し、川の位置も定まらなかった。

 瀬田川の治水が進んで琵琶湖の水位が下がりだした江戸時代末期頃から、南流は美崎で新川と大川に分かれ、大川はさらに六番川に分流と地形が落ち着いてきた。

 大川の左岸側から人が住み始め、その後に新川と大川に分かれる中洲にも、北川という集落ができ始めた。北川は中洲であるため、大雨が降ると川が氾濫し、浸水の恐れがあることを受け入れて住み始めている。

 しかし、大雨で川が溢れることは多く、周辺住民は毎年何度も水害を受けてきた。

 それを防ぐため、昭和54年に南流と北流の真ん中に新放水路(現野洲川)が造られ、それ以降水害は起こっていない。

【水害への備え】

 最初、人が住んでいた大川左岸に堤防ができ、人の住んでいなかった右岸は無堤であった。

 大川右岸と新川の間に、今はない中島川があり、右岸に溢れた水はその川を伝って、琵琶湖へ流れていた。

 そのうち右岸側にも10数軒の北川集落ができたので、集落を守るために堤防を造ったが、高さは低い。大川右岸と中島川の間は畑地で、流れるがままにしてあった。

 大川が幅広く流れるので、北川地区は浸水しても深さは浅く、右岸の堤防は低いが、守られていた。

 そのなかで、住民は、助けあって生きてきた。

体験者の語り 女性(昭和23年生まれ)・男性(昭和21年生まれ)聞き取り日 令和元年5月・8月聞き取り

【孤立するけど、避難はしてない】

・私は北川に住んでいる。

 小学校の時、大雨の中で、大人が土のうを作るのに、真っ暗やから横で懐中電灯で照らしてた。

 ふと見たら、びわ湖の水が増えて、向こうからひたひたと押し寄せてきてるの。びっくりして「水が来たー!」いうて。

「上がれ-!」言われて、急いで堤防へ上がった。それが一番怖かった。

大雨が降ったら、大川の橋は流されんように上げてあるので、北川の人は孤立してそこから動けへん。

・それは昔からで、私ら小学校の頃は、台風の時は早よ帰らせはるので、両側川の北川の家で待機するねんけど、ほんまに取り残されるいうかんじ。

けど、今みたいに先に避難するいうことはなかった。やっぱり、ここを守らなあかんいう意識があったんやろね。そのときは、北川は13軒ぐらいやったと思う。

・過去に水害で亡くなった人はいない。北川の浸水もほぼ床下で、家が流されたこともない。大きい台風の時は床上とかあったけど。

そやから、災害に対する恐怖感は、たぶんそんなになかったと思う。助けてくれへんから不満があるとか、そういうのも聞いたことないし。

 子どもは2階建ての家に避難させてもらい、親は土のうを作ったりして集落を守ってるから、みんなで助け合って生きてるいう意識がすごく強かった。

六番川の水が山盛りになって、今のピエリ(商業施設)のそばの曲がってるところが溢れた。

 河口が北向いてるので、秋になって北風が吹くと、琵琶湖の水が押されて逆流し、盛り越して氾濫する。


伝承・言い伝え