【青年団の役割】
平井町には、15歳から25歳までの男性が全員入団する青年団があった。大雨が降ってくると、青年団員たちが葉山川の水嵩を確認し、水嵩が増してくると、古い簡易所に青年団が集まっていた。そして、葉山川の水位が危険水位に達してくると半鐘を叩き、危険を周知していたそうだ。また、青年団は冬場になると、土嚢用の土の準備を行っていた。
【門樋 (モンピ)】
葉山川の堤防は、家よりも高い位置にあった。荷車を対岸に通すため、橋は堤防よりも低く設置されていた。大水の時に橋から水が溢れてしまう。
そのため、橋の入口に門樋(モンピ)を置き、洪水時にはそこに板をはめ込んで、水を溢れにくくする工夫がされていた。平井町には三カ所の門樋があり、門樋の板は門樋から近い家が管理し、洪水時にはすぐに板をはめるなどの対応をされていたそうだ。板をはめる人は男性が中心だが、男性がいない時は女性も板をはめたそうだ。
【早鐘】
水害時や川が決壊しそうな時は、お寺の鐘を連打して、集落中に危険を知らせる。鐘を連打して危険を知らせることを、「早鐘」と呼ぶ。
【一軒からひとり】
危険を知らせる鐘の音が聞こえると、集落のみんながいっせいに堤防に出てくる。青年団も、自治会役員も出動する。何かあったら一軒から一人出て行って、皆で協力して対処することになっていた。
【キツネ川】
葉山川は人工川で、上流には葉山川の支流がない。
そのため、改修前の葉山川は、平常時は何も流れていない川であった。だが、上流で雨が降れば5分も経たずに水が流れてくる。雨が降った時だけ、水が流れる川として、化かす川という意味で、別名キツネ川と呼ばれていた。
【泥水を田んぼに】
葉山川が氾濫しそうになると、集落を守るため、集落とは反対側の田んぼ方面の堤防を切る。決壊したら、泥水が田んぼにたまる。決壊後、みんなで泥を集め、堤防に戻す。
【婦人会の水の守り】
葉山川の洪水の水の守をすることになると、婦人会が寄って炊き出しが行われた。水の守をしている人々のために、おにぎりや漬け物を準備した。
【堤防が決壊するとき】
堤防が切れる寸前、土手に足がボコボコと入った。また、堤防から水がボコボコと吹き出てくる。土手は土や砂でつくられているため、大量に水を含むと、土手が不安定になる。土手に手足がゴボゴボはいると、堤防が危ないという判断基準になる。
【おじいさんから聞いた明治の水害】
おじいさんから、明治時代に洪水で琵琶湖の水面があがり、湖岸から水が上がってきて現在の山田小学校付近まで避難したことがある、と聞いた。
【泡が見えたら、水かさが増す】
川の表面が泡だらけになってきたら、その後、水かさがだんだん増えてくる。
【防災訓練】
平成17年に自主防災組織を立ち上げ、その時に防災訓練を行った。水害時や地震時の避難経路、要援護者の避難など、まだまだ課題は多い。他の学区や集落などとの横のつながりを普段から考えておく必要がある。
【防災意識】
南笠町では水害に対する意識も高く、大雨の時には川の様子を見に行き、注意している。