場所:高島市安曇川町田中(沖田) 提供:沖田自治会
【太鼓と竹流し】
大雨が降ると、沖田にある太鼓を鳴らし、全員が堤防に出動していたそうだ。
近年、水害経験者たちは、若い人の意識が低下してきているのではないかと危機感を抱いている。そのため、竹流し工法や水害経験を、若者に伝えるための取り組みが、沖田では行われている。
場所:高島市安曇川町田中(沖田) 提供:沖田自治会
【水落し】
伏原集落地先の八田川の両岸には、堤防の一部分から水が落ちるように設計されている場所がある。この場所を「水落し」といい、洪水時の水位上昇に伴い、堤防の決壊を防ぐため、「水落し」から自然に両岸へ水を落とす機能を持っている。
【堤防見廻り】
現在でも雨が降れば堤防の見廻りを行っている。
だが、もし堤防が危険な状態となっても、危機感を持っているのは水害体験者だけである。しかも体験者は高齢のため、行動出来ない状況にある。この状況について、水害体験者たちは危機感を募らせている。
場所:高島市安曇川町田中(沖田) 提供:沖田自治会
【水害を若者に伝えたい】
「水害を経験しているからこそ、堤防は自分たちで守らないと。」という、地域防災意識が高い沖田。「若い世代にも水害の教訓を伝えたい」と、水害経験者たちは、水害経験の記憶を記録に残す活動をされている。
場所:高島市安曇川町田中(沖田)
【宇伎多神社】
大昔、寛文時代に、沖田集落にある宇伎多神社は、八田川の水害により流された歴史を持っている。そのとき、「二度と水に流されないように」と、沖田から2km先の横井川集落にある稲荷さんに神霊を預け、村人が当番で、宮守を勤めた。現在、宇伎多神社は沖田集落へ帰還されている。
【川普請(かわぶしん)】
昔から毎年、一軒から一人(特に男性)が参加し、堤防の草を刈る「川普請」(=川そうじ)が沖田の行事にはあった。
「川普請」により刈り取られた草や藻は、「ホトラ」と呼ばれる田んぼの肥料となり、また防災にも繋がっていた。
「川普請」などで沖田の人々は堤防を管理していた。その日は、参加者全員で会食するのが習慣になっていた。
【「アリの一徹、堤防を崩す」】
「堤防から水が注してくる」という意味のことわざが、沖田にはある。
場所:高島市安曇川町田中(沖田)
【水防倉庫】
昭和28年台風13号の水害後、八田川、沖田地先に水防倉庫が建てられた。
場所:高島市朽木市場
【切所堤防と大神宮】
朽木は、たびたび決壊する場所を「切戸(きれと)」と呼び、市場の人たちが、水害が起こらないよう大神宮(水神)を祀り、毎年秋にお祓いをし祈願。(市場の年中行事のひとつ)。
【灯り】
災害で停電になった時は、カンテラ、カーバイト灯り、石油ランプなどで灯りをつけていました。
【水害被害に遭わない場所】
朽木大野では、水害を絶対に受けないという場所がお寺だと言われています。昔の人から「何かあったらお寺に逃げろ」と伝承されているそうです。各集落の古老は安全な場所を知っていました。
【家の工夫】
市場の家には、昔、天井が一畳分開き、そこから物を2階へ上げる工夫がされていました。水害で床下浸水になった時には、そこから畳を天井にあげるなど、水害に備えた家造りがされていたそうです。一般の民家には、水害時にはツシに畳を上げるなど対策がされていました。
【竹流し】
洪水時、堤防が決壊しないように、消防団が水防活動を行います。安曇川の水位が低くなる(水が引くとき)と、護岸が削られ堤防決壊する恐れがあるため、竹を流し堤防を守る「竹流し工法」を行っていた。
竹流し工法は、数本の竹を束ね水に流すという方法で、護岸を守るのに効果的であるそうです。
【水防の助け合い】
昭和28年台風13号の影響により、市場地先(岩瀬~市場間)の堤防が決壊し、水害が発生しました。堤防復旧と炊き出し(食糧支援)のために、周辺の集落に応援を依頼し、助けてもらったそうです。
【朽木渓谷と霞堤】
朽木市場の下流に、朽木渓谷があります。そこには、江戸時代にものすごく高い岩があり、水害時には家屋が詰まり、その水圧によって岩が折れたという伝説が残っています。太古、市場・宮前坊・野尻の一帯は湖でした。そのため、安曇川の水が逆流してくると、水が溜まるという弱点を持っています。溜まった水が上流の集落(市場など)に流れることを軽減するために、宮前坊・野尻地先の安曇川両岸には霞堤を築いて遊水地にしたのかもしれません。
【崩れ坂】
江戸時代に発生した地震によって、大津市梅ノ木に大規模な土砂が流れました。安曇川の水も土砂により堰き止められ、天然ダムが出来てしまいました。土砂によって堰き止められた水は、数日後一気に下流へと流れ、大水害が起きたという歴史があります。これより上流の坂下地先には室町時代から「崩れ坂」と呼ばれている場所があります。安曇川流域に住む人々は、土砂崩れによって発生する水害も、心配しています。
【けやき淵】
この集落(井ノ口)にとって一番危険なところは、石田川沿いの藪の「けやき淵」と呼ばれる場所。この場所が切れると、集落に水が流れてくるため、一番恐れていた。
「けやき淵」付近は、藪が低く、石田川の水位が上がってくると、この場所に水が溜まってくる。そのため、「けやき淵」の浸水状況を見て、集落の避難指示をするための判断をする場所でもあった。堤防が決壊する前、「けやき淵」に見回りに行くと、藪一面に水があった。
【大雨と西風】
大雨が降って西風が出たら、石田川の水かさが上がるから危ないと、昔からよく言う。
石田川上流に荒谷山がある。荒谷山に降った雨は、すべて石田川に流れていく。それに西風が伴うと、葉についていた水が落ちるため、川の水がさらに増える。
【井堰の開閉】
大雨になると、井堰の開閉調節をして、集落に水が入ってくるのを防いだ。川から田んぼに水を引くための井堰が、井ノ口には二ヶ所ある。大水になると、川から井堰を通って水が集落の方に入ってくる。
それを防ぐために、担当を決めて、井堰の水の管理をしていた。雨の様子を見て、石田川の井堰は閉めて、上郷川の井堰は開けに行った。特に、台風や梅雨時は、雨の中で、開けたり閉めたり、その管理に非常に神経を使った。
【堤防の強化】
川の流れがきついと、水が堤防にきつくあたるため、堤防の土が削れて、堤防が弱くなってしまう。
集落の近くの、水がきつくあたる場所(堤防)の水中に、10メートルくらいの長さの蛇かごを3つ、山のように積んで、堤防を強化していた。
蛇かごは、竹で編んだかごのようなもので、石をたくさん入れた。昭和40年に決壊した場所は、蛇かごを設置していた場所だった。
【霞堤】
集落の100メートルほど上流に霞堤がある。上流で石田川が決壊して水が流れてきた場合、この霞堤によって、再び、水が石田川に戻るようになっている。かつての霞堤には気が植わっていた。
【竹を流し、堤防を守る】
国道あたり(橋付近)で、堤防がこける(堤防が崩れていく)のを防ぐために、3メートルくらいの竹を、堤防にある木にロープでくくりつけて、川に流した。
【水はけ場】
「水はけ場」と呼ばれる場所が、国道にかかる橋よりも、少し上流の右岸付近にあった。普段は、田畑と雑木林だった。
大水の時は、境川の水量を下げるために、境川の水を「水はけ場」の方に流した。「水はけ場」に流れた水は、櫟原神社の北側を通り、下流の方(国道の方)に流れた。
【どろ水と波】
国道にかかる橋付近の川の様子を見て、危険を判断する。流れる水が波が立ち、どろ水が出てくると、危険と判断する。危険と判断したら、上流にある水はけ場に行き、水はけ場の方に水を流し、境川の水位を下げた。
【蛇かご】
堤防には、蛇かごを設置していた。昭和28年台風13号で決壊した場所にも、蛇かごが置かれていた。
【集落の高低差】
川のそばには集落がない。川に沿って田んぼがあり、田んぼよりも高いところに、家が建てられている。田んぼにも高低差が1.5メートルほどある。昭和28年に被害があった田んぼは、一番低い場所にある田んぼであった。
【勝林寺】
勝林寺は、川から遠く、お堂が高い。そのため、非難の合図であるお寺の鐘の音が「ゴーン、ゴーン」となると、住民は勝林寺に避難した。
【長袖とにぎり飯】
台風の時期には、よく避難をした。
家には、いつでも避難できるように、にぎり飯とうめぼしがいつも準備されていた。子どもたちは、着替えを風呂敷に包んで持って避難所に行った。寒くないように、夏でも長袖の着替えを持って行った。
避難の指示があると、いつでも、何をしていても、とにかく逃げた。
【流れてくる木】
流れてくる木は、橋にひっかかると橋の両端に水が溢れる原因になるため、注意していた。
【箱館山の横に滝】
石田川の上流にある箱館山の様子を見て、危険かどうかの判断をしていた。
箱館山の横に一本の滝が見えると、石田川が増水する。そのため、浜分では箱館山に滝が見えると、逃げる準備をした。