場所:木之本町土倉
資料提供:白川雅一氏
場所:木之本町土倉
資料提供:白川雅一氏
体験者の語り(大正6年生まれ )
【伊勢湾台風前の木之本町土倉の様子】
私は、昭和21年5月に戦地より帰国復員し、父の待つふるさと土倉に帰り、親の面倒を見るため、土倉鉱山に入社しました。
土倉は、木之本町の中心部より東北へ、杉野川沿いに国道303号がうねる、岐阜県との境界の近くにあります。標高330mの地点で、土地が狭く豪雪地帯で、昭和に入ってから、3年毎に4回もの表層雪崩(通称アワー)が発生し、26名の犠牲者が出たため、昭和15年に、鉱山の施設を標高300mの出口土倉に移しました。
鉱山には保安消防団が組織されていて、火災は勿論のこと、災害救助等は、常に訓練を重ねて万全を期していました。
【昭和34年9月25日、伊勢湾台風が発生】
26日夜に入って、大型台風が近づくというニュースが流れ、集落内にある映画館に避難するようにと、マイク放送や団員の呼びかけによって対応していました。
夜9時過ぎには一段と風雨が強くなり、河川の水も多くなり、400mm位の雨量だったと思います。
そんな時不思議なことが起こりました。上流からの水が突然止まってしまい、何が起こったのだろうと一同思っていたら、急に大きな音をたてて水が流れだし、瞬く間に洪水で川を埋め尽くし、川の近くにあった住宅の前の物置小屋が4軒、流されてしまいました。
住宅も危険な状態になったので、各家の畳を持ち出し、みんなが一列になって、元の川に流れるよう畳堤による川づくりをした結果、社宅は難をのがれました。
その後雨も小降りになったので、一同休憩しようと事務所に引き上げる途中、下町の方から黒川さん宅の裏山が崩れて生き埋めになっているとの知らせで、現場に急行しました。あちこちから助けを叫ぶ声。まさに生き地獄の様相でした。
消防団員は手分けして救助しましたが、停電で夜も更けての作業でしたので、やむを得ず明朝ということで、作業を打ち切りました。
翌朝、自衛隊や木之本町の他地区の方々の応援もあり、全員の死体を発見することができましたが、残念ながら黒川つねさんの首だけは見つけられませんでした。
黒川さんの裏山の危険性を調査中に、再度土砂崩れが発生し、消防団員の大方は逃げたのですが、隣村の金居原の消防団員の方が、長靴に足をとられ生き埋めとなり、救出して人工呼吸を行いましたが、助けることはできませんでした。
後日、黒川さん宅の葬儀が下町の分教場で行われ、6人家族のうち1人だけ助かったお父さんが、出棺の際、亡くなった6年生の娘に、「お母さんは目を失って見えないから、お前があんじょう連れて行ってやれよ。たのんだぞ。」と涙ながらに話しかけられていたことに、参列者一同涙したのを思い出します。
体験者の語り(女性:母親)
【台風が襲来】
伊勢湾台風が滋賀県を襲った昭和34年9月25日の3日ほど前から、激しい雨が降り続きました。それまで体験したことのないような雨量でした。
土倉鉱山の町内放送が、「今までにない、大きな台風が近づいている」「どういう事態になるか分からないから、缶詰を備蓄しておくように」ということを何回も知らせていました。
そのため、雨の中を配給所(鉱山が経営する、ただ1つの食料品店)に行き、食料品を購入しました。
災害当日、杉野川は水かさが異常に増し、川を見に行くと、大きな岩がゴロゴロと流れ落ちてきていました。普段は川の水面から橋桁まで3~4メートルもあるのに、その時は橋桁まで1メートルもないように見えました。
夜中になると、主人たち会社員は、鉱山の施設や事務所を警備するため出かけたので、ほとんどの家庭は、主婦と子どもだけで留守番という形になりました。
そのうち、消防団の人が、下流にある川に近い家12軒を1軒1軒回って、川の増水が心配だから、分校に避難するように勧告しました。
私も避難の用意をしていましたが、子ども4人を(1歳、3歳、小学校3年と小学校6年)を起こすのに手間どっていたところ、隣の奥さんが駆けつけて娘をおぶってくれ、一緒に分校に避難しました。時間は午前零時過ぎだったかと思います。
分校には、すでに勧告を受けた家の人たちが集まっていました。
分校には炊事場もあったのですが、鉱山のはからいで、おにぎりの炊き出しがすぐにあったのには驚きました。
分校でどのように過ごしたのか、もう記憶がないのですが、飛田さんの親戚の人たちが、何回も飛田さんの奥さんと坊やを探しにきました。
「そう言えば来ていないようだ」。また、「稲光を見た」「大きな不気味な音を聞いた」などの話も出てき、あの親子もこの親子もいないということも分かってきました。
夜が開けて、山崩れがあったことが噂で伝わってきました。黒川さんの家がないことも伝わってきました。
私が家に戻ろうとすると、「まだ危ないから帰ってはいけない」と消防団から止められました。
今度は分校裏の山も崩れるかもしれないということで、分校から出て、安全な家に分宿して避難して、次の夜を迎えることになりました。
【台風の被害】
台風が来た翌々日に、初めて自宅前の山崩れ現場を見たように、記憶しています。川と反対方向の自宅前の山が崩壊し、山の中腹にあった2軒の家が、見る影もなく消えていました。
土砂は家の前10メートル前まで流れてきており、川よりも山の方向が危なかったのだと、思い知らされました。川の氾濫や鉄砲水が危ない事だけを心配していたのに、反対の山にやられたということでした。3日間激しく降り続いた水を、山が耐えきれないほど吸い込んで、崩壊したのです。
あんな激しい雨は初めての体験でした。
犠牲になった方は、川から遠い家なら大丈夫だろうと、山の方の家に避難していました。
消防団からは、分校に避難するように言われてたのですが、遠慮のないその家に避難したようです。
主人たちは鉱山の警備に出かけていたため助かりましたが、奥さんや子どもたち、赤ちゃんが犠牲になりました。
隣村の消防団の方も犠牲になりました。自衛隊がまだ到着しないとき、山崩れの中腹で不明者を捜索していたときに、再度山が崩れ土砂に飲み込まれて、亡くなったのです。二次災害でした。
私はその時、自宅前で作業を見ておりましたが、土砂があっという間に崩れ流れ落ちた光景は、一生忘れることはないでしょう。
今から思うと、あの時の雨量は異常なほどでした。激しく、しかも長い降雨でした。
崩れた山は禿げ山でもなく、杉などが植林されていました。清水が湧き出しており、”この水が濁ると危ない”という言い伝えがあったようです。
しかし、台風襲来の当日は、水は濁っていなかったということも聞きました。山が支えきれないほど雨が降って、土の水分が基準を超えてしまったのではないでしょうか。
1ヶ月ほど後に、犠牲者の方々の会社葬が鉱山のグランドで行われました。
黒川さんは家族4人を失い、悲しみのため、葬儀では歩くことができないぐらい憔悴していました。台風前には真っ黒だった黒川さんの髪は、真っ白に変わっていたことを今も思い出します。
もうほぼ50年前のことですから、記憶違いもあるかもしれません。
はっきりしているのは、川の氾濫による災害ではなく、土砂崩れによる災害であったということです。川は激しく荒れてましたが、橋も落ちることなく無事でした。山崩れ現場には、その後防災のためのコンクリート防壁が二重に築かれ、防壁の脇には慰霊碑も建てられたように記憶しています。
体験者の語り (男性:当時小学3年生の息子)
伊勢湾台風が襲来したのは、私が小学校3年生の時でした。
避難した分校では、普段と違う環境に興奮していたのか寝付けず、教室をうろうろと歩き廻っていたのを思い出します。
そのうち、同級生の戸高雪子ちゃんを見ていないかと何回か質問されました。行方が分からないという話でした。
翌朝になって、自宅近くの裏山が崩れたと聞いて、事故現場を見に行くと、そこには、今までなかった、山崩れによる崖が出現していました。
土砂は、山のふもとから数十mも流れ出て、押し出していました。
山の中腹にあった黒川さんの家と近藤さんの家が、跡形もなく流れ落ちていました。 多くの人が巻き込まれたことも分かってきました。また、「遺体がどこそこで見つかった」「どこどこに安置してある」という話も伝わってきました。同級生の戸高雪子さんも犠牲者の1人だったのです。
学校は、しばらくの間休みになりました。
自衛隊の方々が駐屯して、遺体収容にあたってくれました。テントによる駐屯生活では、食中毒を起こさぬよう衛生管理が厳しいことが、話題になっていました。
社葬のあった日は、授業が半日になり、午後から葬儀に子どもも参加しました。雪子さんらの写真を高く揚げた葬列が、会場を通り抜けたのを記憶しています。
その後、崩壊あとに、土砂防止のコンクリートの防護壁が二重に建設されました。
伊勢湾台風は、私の記憶では雨台風でした。杉野川の推量が増えて洪水の危険があったのですが、予期しない山崩れで、犠牲者が出る結果となりました。
崩れた山は、高い山ではありませんでした。大きい樹木はなかったように思います。
体験者の語り(大正15年生まれ)
大雨が降ると、一番最初は、川の水が増えてくる。
そうすると、字の役員、区長とか消防団の人が、堤防の弱いところの見張りに歩く。
これは危ないなという水量になったときに、お寺の鐘を乱打する。
そうすると、必ず一軒に一人の男が、現場へ出る。
現場では、堤防の弱いところが分かってて、堤防の裏側から水が浸み出よる。堤防を越えて、下をくぐって。
手当をせな危険やから、水が流れている堤防にナゲシをかける。
「ナゲシ」とは、大きな木の枝、または枝のついたままの木を、流れが強く当たる部分に当てて流し、堤防が切れないように保護すること。
堤防の裏側には、堤防強化のために、大きな杭を打つ。そういったことをして、急場をしのぐ。
昭和に入り、一番すごい水害が伊勢湾台風。
伊勢湾台風の時は、姉川の水が堤防を越えたと思う。それで一帯が浸いた。
私の家は石垣を3~4段積んでいたので、水は家の中までは入ってこなかったが、玄関を出て3mほどのところまで水が来ていた。
田んぼはダメやった。
”差し苗”と言って、苗が腐ったり虫にやられても、代わりの苗を植えられるように、田んぼの隅っこあたりに稲の苗の束を保存しているところがあるんやけど、上流の方でそれが残っているお宅へ、”差し苗”をもらいに歩きました。少しでも米がとれんかなと。
野菜は、嫁さんの親元に頼んで収穫出来るまでもらったり、米は借りた。米が出来たら返すからと。
飲み水は、水に浸いていないところへもらいにいった。唐国は浸いていない。地下水の水点が高いんです。ガチャコンで水が出てくるんです。近くの人たちも水を頂いていたと思う。
土地の高いお宅は、近所の人たちの大切な荷物を、浸からないように預かっていたそうだ。
体験者の語り(昭和4年生まれ)
唐国はみな、石垣を積んで家屋を上げている。1m50ぐらいかな。石垣を5段ぐらい積んでいる。水が浸くことを予測したような感じで。けど、家の道なんかは浸いていました。家までは入らへんけど。
【姉川の氾濫】
伊勢湾台風の時も、このあたり、ダムみたいになった。この一帯は畑と田がほとんどで、一面海のような感じで。
そして、姉川が氾濫した。その場所を”キレショ” という。
水が増水したときには、大堤防の、「切り通し」に板をはめて、集落側に水が入るのを防ぐようになっとった。
けど、気づくのが遅くてそれができなくて、その堤防の切れ目から水が溢れてきた。
「切り通し」いうんは、川の中との行き来のために、堤防に切れ目を入れてあるとこのことで、ふだんは通行できるようにしておいて、いざというときには、そこに板をはめて、水の浸入を防ぐやり方。
それが、板をはめるのが間に合わんかった。
【高時川】
高時川は、決壊しなかったけど、危なかった。それで「ナゲシかけ」(木流し)をした。
高時川の水が増水してくると、消防団やら村の役員らが川の周りを見て廻るんですね。
堤防のあたりから、ジャラジャラと伏流水が音を立てて出てくるようになると、「これは危険やぞ」とみんなに知らせる。「みんな、堤防の護衛をせなあかんから、出てくれ。」ということで、「ガンガン」と大鐘を突いて、知らせた。
昔はお宮さんにも鉦(かね)があったんで、その鉦を鳴らして、男も女も、出られる者は出てこいと、みんな総出で。
家にいる人は、大切なものを2階に上げるとか、逃げる準備をした。
【唐国の状況】
川の淵には、たえず伏流水があるから、それを排水する三尺ぐらいの川が、唐国に付いているんです。堤防が守れるように。
水を吐かせるところがないと、いつもそこがグダグダになってしまうから、排水するように川が付いている。私の字の中は、十文字に三尺ぐらいの排水するための川が流れている。
排水の川をみてみると、滝のように流れがある。
普通は、堤防でも水が来ないと分からないですよね。増水すると、穴が空いているとか普段分からないところが、分かってくる。本当に滝みたいにジャラジャラと出てくるのが怖いです。
昔から「蟻の穴から城くずす」と言って、小さい穴でも水が流れかけると大きい穴になって、城が崩れてしまうという、ことわざがあった。
あと、炊き出しもあったね。みんな時間も忘れて作業せなあかんから。みなさん、たくわんを漬けてるので、たくわんをおかずにして、握り飯で。婦人会の人たちがお宮さんに寄って、消防団などの人たちのために、作りました。
体験者の語り(大正15年生まれ)
姉川の堤防の決壊の恐れがあるので、一人でも多く水防活動の応援に来てほしいと、酢村の区長から田の区民の人々に、、放送(有線)で応援を頼まれました。私は酢の姉川河川敷(左岸)へ走りました。
酢の姉川河川敷では、姉川の上流から丸太が流れてきて、姉川橋で止まったことで、橋脚が危険な状態となりました。
そうすると、勇敢な男性が、ふんどしで川へ飛び込み、丸太にロープを括りつけ、堤防まで引きずって来てくださって。
姉川橋の決壊は免れましたが、水流はどんどんと強くなり、国道8号線は姉川橋から高時川までの区間、道路が浸水し深くなっていくようだったので、通行止めになりました。
また、稲の束も流されたため、非常に困りました。
五村の製材所の七尺の板が、北陸線の上を西へ200m、酢村の神社まで舞い上がり、神社の高い木に当たり、神社の東側へ何枚も落ちました。恐慌な風でした。
体験者の語り(昭和6年生まれ)
宮部は、虎姫町では一番水が浸かないところだと思われていますが、昭和34年の伊勢湾台風で、宮部の東側が水浸きになりました。
その時私は、消防をやっていました。
酢村の地先では、姉川の堤防が切れかけました。私らのところも、部落から離れたところに一人で住んでいる方がおられて、そこへ消防で巡回に廻ったとき「こんなとこに、居りな。危ない」と言ったわけやけど、だんだん水が浸いてきました。
明くる日、そのお宅へ行ってみたら、堤の土手の20cmのところまで水が来てました。それを見てゾッとしました。
そして、宮部から国友へ抜ける姉川の国友橋の、端の橋脚が2本落ちました。
あの当時は、今のコンクリや鉄の橋とは違ごうて、ほとんど木造の杭を打って、その桁と桁との間の繋ぎに、平板の鉄の板でボードを止めてはる。それが桁と共に流れていくと、鉄板が切れない。それが橋脚の脚に引っかかって、下をえぐって橋が落ちる。水の量が多くなくって「堰(せき)」になってしまうということが起こりました。
体験者の語り(昭和9年生まれ)
【姉川左岸、酢村地先の旧姉川橋周辺で堤防が決壊】
姉川左岸、旧姉川橋周辺の堤防が決壊したのは、伊勢湾台風の時です。
当時、私は農協に勤めていました。堤防が決壊しそうな場所で、水防活動を行っている町の役員さんや消防団員さんたちから、農協の当直の私に、突然「俵とかあったらだしてくれ。土砂をいれるカマスがないか?」と要請がありました。
私は、現場に行けるかどうか分からんかったけど、農協の人に連絡をすると、「倉庫を開けてとりあえず資材を持ってってくれ」ということで、自動車で持ってったんです。
水防現場まで行く途中、集落中に半鐘が鳴り響いていました。それが今でも耳に残っています。その音の怖さはね、ほんまに聞いた者しか、体験した者しか感じられませんね。
そして、現場までの国道8号線にも少し浸水していました。
現場に到着し、町の役員さんや消防団員さんたちは、現場近くにあった電柱置き場の電柱を使用し、決壊しそうな場所に土嚢と一緒に積み上げ、川の水が上がってきては積むという作業を、休みなくしておられました。
私は、荷物を下ろしてから手伝おうとしたんだけれど、「これは危ないかもしれん」ということになって。
そして「切れる。切れるさかい。あかん。逃げよ。お前は車があるで、先に行け」ちゅうことで、自動車で酢村方面に向けて逃げてたら、後ろから水がどんどん追いかけてきて、道が道じゃなくなるんですよ。「海の中のどこに道があるかな?」という感じで、探りながら運転をしていました。私は、酢村集落内の主道路はしょっちゅう通っていましたから、電柱を頼りに走りました。
けど、自動車のスピードを出して走らせると、車の中に水が入って、エンジンが止まってしまう。けれど、後ろから水がどんどん増えてきますしね。
とりあえず、エンジンを止めないように、それと水路にはまらんようにして帰ってきた。でも、自宅方面に走行しているということは、土地が高くなっていくはずなのに、水位が上がってきてたので変わらなかった。家の近くまで来て、やっと道に上陸できました。
結局堤防は、水圧に耐えられず決壊しました。 あとから聞いた話やけど、水防の現場からスコップ1丁(1つも)持って帰れなかったそうです。身体だけ逃げるのが精一杯。
【近隣の人の荷物を預かる】
私の家は、酢村でも比較的高いところに建っています。だから、水浸きになりそうなとき、在所の人の荷物を預かります。当時も何軒か来られた。大事なモノだけ持って。
【避難準備について】
このときは半鐘を鳴らしていたのは役員さんだけで、その他の人たちは自分のことで一生懸命。逃げたかどうかは、分かりません。
【牛の避難】
私の兄が牛を飼うてて、牛を連れていったことはあると思います。
三川集落に牛の売買をする人がいはって、そこへ預けたそうです。餌とか、やってもらわな困るんで。鶏などはほったらかしでした。
【田んぼの状況】
田川の水が増えて、籾のついた藁が集落の川に流れてくる。流れてきた藁が橋に引っかかり、稲藁や籾が集中して流れてくる。
自分の所の稲が流れて、それを拾いにいくんやけど、どこの稲なんか分からない。流れてきた稲をとってもいいのか、悪いのか分からんけど、そのまま流れていくよりはと思って拾ってた。
昔は、田んぼも泥水をかぶり、泥が溜まった状態では、次の年に田植ができず、綺麗な水が田に流れてこないため、溜まった泥を田んぼの一角に集めて、その場所を畑にして、田んぼを元の状態に戻していたそうだ。なので、どの田んぼにも、畑があると、先人が言っておられました。
また、大水で水害になったときには、私らのところで米が1俵しか収穫できない。特に伊勢湾の時は、米が買えないというところもあったし、収穫はだいたい1俵か2俵。普段なら6俵から7俵収穫できるのに全然収穫できない年もある。それだけ水害を受けていたことになる。1俵の米を穫るにも、例年通りの作業をせんなあかん。稲を刈るのもそうだし、脱穀はせんといけんし、干さなあかんし。
水が浸いて災害が起こっても、普段と同じように作業はしなければならなかった。今は田川改修工事のため、ほとんど水が浸かない。ありがたいことです。
体験者の語り(昭和4年生まれ)
【台風の翌日、結婚式を挙行】
昭和34年9月26日が伊勢湾台風で、翌日の27日に、私は結婚したんや。台風の翌日で大水やった。家族は三川の元三大師へ避難してました。
9時には、呼び衆であるお客さんが来てくれるし、昼頃には婚荷が届き、夕方は花嫁が来るので、私だけが残って、まず牛を中野山の矢合神社の鳥居に括りつけたけど、2時間後には牛は水浸きの小屋へ戻っていました。
床上浸水を心配して40畳の畳をまくり、床に米の?を立て、全部その上へ積んだけれど、それも1時間ほど。また畳を敷き直したところへ、晴着を膝までまくってお客さんがこられたような有様。前後して、家族も避難先から帰ってきました。お昼過ぎに婚荷が着いた時には、膝まで水のある所を、親類の人らは苦労してくれたわ。
【田んぼの状況】
皮肉なことに、その年は大豊作だったんです。
けど、26日が台風やったから稲が倒れる。翌日洪水で冠水して、太陽にも当たらないし、風にも当たらない状態で発芽しよったね。
大水から10日後には、収穫に取りかかれるような状態やったのに。全部の籾が灰色やったな、黄金色ではなかった。ほんで、脱穀して籾干し。田んぼは、一丁五反ほど作ったんや、半月ほどかかって収穫をして毎日灰色の籾干しをしました。
おかげで等級は落ちた、五等米(ごとうまい)と言って。その当時の値段で200円ほど落ちたな。大豊作やったけど品質は悪かった。
【避難】
大寺に住む、女、子供、病弱な人は、念のために三川の方に避難された。でも、危機感は無かったと思う。
体験者の語り(大正11年生まれ)
【中野の水害】
田川の氾濫により、いろんなところが浸いた。
学生の時、学校に行くのに、途中の馬橋から大寺のちょっとの間を水が流れる。それで学校に行けないという時が、1年に2~3回あって困っとった。 よう早鐘がなっとった。
【伊勢湾台風の水害】
鯰原(小字)の道のあたりでは、Aさんの胸のあたりまで水が来ていたという。
Aさんの田んぼは、稲穂をさお干しではなく、”カリゴギ”という、刈ってすぐに穂を束ねて、3束ずつ田んぼの中で2~3日乾かすという方法で、脱穀して、ムシロに干しもみをしている最中だった。
だが伊勢湾台風によって、全部、穂が流れてしまい、どこに流されたのかわからない。そのため、中野としては北西の山の方の米しか食べられなかったそうだ。
体験者の語り(地元の男性3人による 聞き取り日:平成27年11月19日)
【この調査は立命館大学歴史都市防災研究室と協働で行いました】
長浜市高月町にある馬上(まけ)地区は、北国脇往還(ほっこくわきおうかん- 関ヶ原と木之本を結ぶ旧街道)が地区内を通っており、江戸時代には、北陸と京都や江戸を結ぶ交通路として、大名行列や飛脚の往来が盛んな古道の要衝であった。
その一方で、馬上地区の周辺は高時川の氾濫原であり、多く浸水被害を受けてきた歴史がある。
馬上は南北方向に長い地区で、西に高時川、南に山田川が流れ、東には山田山が迫る、三方を川と山に囲まれた地区である。この地形条件により、高時川が地区に近い場所からあふれた場合だけでなく、地区よりかなり上流の石道地区で溢れた場合も、水は馬上まで到達し、地区に被害をもたらす。このため、水防活動においても警戒する範囲が広い。
地区の中には、かつて馬上地区のみならず下流の旧東浅井郡の村々の水田を潤した、「餅ノ井」(もちのゆ)と呼ばれる農業用の水路がある。
浸水被害をもたらすのは高時川だけでなく、この餅ノ井が増水し、溢れることで、地区内が浸水することもある。
住民の方たちの体験から、地域の特性と明治29年・昭和34年伊勢湾台風・昭和40年・平成2年・平成10年の水害をまとめてあります。
参考(滋賀県災害誌より各水害の概要)
【明治29年9月琵琶湖洪水】
この年は、非常に雨の多い年で、1月から8月までに、平年の1年分に相当する雨が降り、9月に入ってもよく降ったうえに、9月7日早朝より、雷を伴った一大豪雨となった。
元彦根測候所長は「ロープのような太さの雨で、その上雷雨を伴い実に凄惨な光景であった。」と回顧している。寒冷前線が停滞したため、滋賀県を中心とする豪雨となった。
彦根では、9月13日に1立方メートル5cm浸水し、彦根市内の80%が浸水している。
【昭和34年伊勢湾台風】
8月、台風7号の大雨により大小の河川が決壊し、その応急復旧もままならないうちに、9月、伊勢湾台風と立て続けに大型台風が通過。
伊勢湾台風では、彦根で台風の目が観測された。この台風によって、姉川・天野川をはじめ、県下各河川の本流支流で氾濫、堤防が決壊し、いたるところで浸水・冠水した。冠水時間が異常に長引き、彦根市松原では収穫が皆無になるなど、甚大な水害被害があった。
【昭和40年9月 台風23・24号】
9月9日以来、秋雨前線による雨が続くなか、10日に台風23号が・17日に24号が立て続けにやってきた。
台風24号は、この年の最も大きい台風で、各河川はこれまでの増水した水量に加え、さらに急速に増水し、9月17日23時頃には、各地で堤防の決壊が起こった。そのため、家屋の全半壊をはじめ、田畑の流失・冠水などによる水害被害・農作物被害が甚大なものになった。
【平成2年台風19号】
9月19日から20日にかけて県を直撃した台風19号は、停滞していた秋雨前線を刺激し、大雨を降らしながら、県を南北に通過し、湖東地域を中心に多大な被害を与えた。県内各河川は、軒並み通報水位・警戒水位をはるかに超え氾濫し、愛知川では、旧能登川町で2か所の堤防決壊が起こり、周辺地帯に浸水被害が集中した。
【平成10年台風10号】
台風の発生数は、平年に比べ少なかった。この年最大の降水量だった台風10号は、10月15日から雨が断続的に降り続き、18日早朝には、警戒水位を超えるところが出てきた。徐々に水位は下がり始め、5時間程度で警戒水位を下回り、午後には通報水位も下回った。
場所:長浜市今町
提供:吉田一郎氏
体験者の語り
【昭和34年の9月。台風が襲来した夜】
僕が高校3年生の時です。
午後から夕方にかけて、台風がひどくなってきましたわ。夜の8時ごろが一番、ひどかったんでないかな。停電してしまいましたしね。
うちの家も含めて、ここらの家のほとんどは、葦葺きの屋根でした。
昼過ぎから親父と、屋根が飛んでしまわないように何本か縄をかけて、保護策を講じていた。
この四隅の角っこが飛びやすいんでね。そして角っこから、家の中へ風が潜って、屋根がガバーっと膨らんで、角っこの葦が「ピューピュー・ピューピュー」外へ向かって抜けていくんですわ。ちょうど弓矢の矢が飛んで来るような感じですね。
それで、角っこの葦が飛ばないように、角っこへむしろを当てて。長い竹の釘のようなものを作って、それでむしろを押さえる。屋根が膨らんでくるもんで、怖かったです。その作業は、夕方までに済ませておきました。
8時過ぎに台風の目に入ったんでないかと思います。
その時は、本当に一瞬「風が止んだなぁ」と思って外へ出たら、まあ綺麗な満天の星空やったんですわ。「なんちゅう綺麗な星空かなぁ」って思うくらい…。
どのくらいの時間続いたのか分かりませんけれど、かなりの時間、台風の目が続いたように思います。
その時、親父が「これからの北返しが怖いんや」って言うてましたけど、その北返しの風の方が強かったように思いますね。北返しで、屋根に穴を空けられた家がありました。
夜中の1~2時過ぎからは、風は止んだように思いますけれど、今度は水ですわ。何時頃からかな、自治会のほうから、「握り飯作って、逃げる準備せえ。」という連絡が入ったんですわ。僕の母親はおにぎり作って、いつでも逃げられるようにと準備はしてましたね。
【木流し工法で、姉川の決壊を免れた】
旧国友橋があって、堤防から濁流が溢れたんですわ。
結局、この橋のところへ流木が横にド~ンと当たってしまって、橋の上を濁流が洗うんですね。そして、橋の橋脚も洗う。V字型に、こう、橋脚のところが落ち込んでいくような感じでした、それは翌くる日ですけれど。
夜中はとにかく、そこにバーっと流木が溜まって、橋の上を洗いますし、それが堤防を越えて、国友の中央通りが川のように、堤防の方から水が溢れてきましたわ。そして、家の中に水が入ってきました。
その時は、みんな、もう逃げる準備にかかってましたね。「どこへ逃げるんや、お寺の御堂(おみっとう)へ逃げ込んだら、水に浸くことはなかろう。」というようなことを聞いてましたけれども、お寺が四箇寺ありますんで、逃げるところまではいかなかったんですわ。
あの夜中に、家も心配ですのに、川のところまで見に行ったことを覚えています。堤防を越えて濁流が、道路を川のように流れている状況を、目の当たりにしてきましたので…。
家に居てもかえって怖かったからですからね。そして川がどういう状況になってるんやって心配もありましたし。その時に、お寺の半鐘が鳴ったのかも、わかりませんね。
明くる日、みるみる間に水が溢れていって。
堤防っていうものは、水位が最高に上がった時点で決壊するものかと思ってましたけれど、そうじゃなかった。グーッと川の水位が真ん中くらいへ減って、中州が見えたころに、一箇所に水が溜まって、堤防にぶつかるような水流が現れて、その部分がガバガバ・ガバガバえぐれてくるようなかんじで。
木流し工法は、三つ叉組んだりですね。そういうことをやられたから、決壊を免れたと思います。やってなかったら、決壊していたと思います。場所は、現在の国友橋と旧の国友橋の間あたり。姉川ブロックという会社がありますが、あの下流あたりが、ちょうど流れがドーンと水がぶつかるところで。
当時は、水防倉庫がありましたし、水防倉庫には太いロープがありまして、運動会の綱引きで使うような太さで、毎年、在所で編むようにしてたんです。毎年、防災用として、何10mかの長い縄をいくつも水防倉庫に積まれてたし、むしろとか杭やとか防災資材がストックされてました。
今も水防倉庫があるんですが、中に何が入ってるか見たことないです。
地元の消防団・自警団が水防団みたいなもんやったんですね。いざという時には、ザッと(水防等の)作業に出席していただいたんです。でも、今はそういう組織はなくなりました。
【食料の貯え】
濁流が井戸へ流れ込むっていうことはなかったですね。水(飲み水)に対する心配はなかったです。おにぎりさえ作っておけば、味噌はこんな瓶にいっぱい、一年分作ってるわけですから。たくわんやらお漬け物やら梅干しもありますし。これはやっぱり田舎の知恵ですわ。
場所:長浜市今町
提供:吉田一郎氏
体験者の語り
【台風前の状況】
台風襲来前、風がきつく、まともに歩ける状態でなかった。風にもたれ、後ろ向きに進む方が歩きやすかったという。その風で、建設中の隠居が潰れたそうだ。そして屋根も、土煙と一緒にあがったと思ったら、下の柱がバシャーンと倒れたという。
【台風襲来。姉川の状況】
お彼岸が済んだ後に、山の木材を伐採するそうだ。その作業が、伊勢湾台風の数日前に行われていた。
して台風襲来により、その木材(丸太)が、そのまま谷へ流れ、ものすごい勢いで姉川に流れて、今村橋の橋脚に引っかかった。
河川の水位が低い時は、丸太を取り除く作業が出来ていた。
けれど、だんだん水が増え濁り水となると、ごみも何もかも一緒に流れてくるため、渦が巻き、橋脚に水圧がかかってきて、丸太を取り除く作業が出来なくなった。
その結果、丸太が橋脚で水を堰止めてしまい、橋脚の基礎がえぐれて、今村橋の橋脚が折れてしまった。
【水防活動】
夜中、千草町と今町の間の堤防が、削れて薄くなり、切れかけていた。決壊すれば、洪水は榎木町へと流れてしまう。
今町の人々は、水防作業として、まず始めに、榎木町の自治会から畳を運び、畳の下に番線(太い針金)で土のうをくくり、堤防から流した。
そして次に、水の引き際に、河川の中(左岸側)で、三つ叉を組む作業が行われた。
川幅いっぱいに水が流れている時は、堤防は洗われない。水は、水が少ない時や水が引く際、部落のある方へある方へと蛇行して流れてくる。そのため、堤防がえぐれてしまうのを防ぐために、水の引き際に、三つ叉組が行なわれる。また、水量が多いと、危険だからということも理由のひとつとされる。
三つ叉を組む(水防活動)服装は、当時、ズボンの紐をはずすと後ろが割れる”はんももひき(水圧がかからない作業着)”と、足の半分あたりまでの草履(通称:トンボ草履)を履いて作業が行われていた。
先頭で川へ入っていく者は、川原の砂で足下をすくわれ、水に流されやすい。死にものぐるいで、一元たる仕様で川原へ入り、三つ叉を組んでいく。
最初に、三つ叉の土台(足)に土嚢を積み、縛りつけなければならない。資材をこの場へ運ぶには、約50mほど上流の川原からから入り、水に流されながら三つ叉まで行く。年配者の指示の下、若者を中心に作業が行われていたという。
そして川の水は冷たいため、作業を終えて堤防へ戻ってきた者に、酒を一杯飲まし、再び川へと入ってもらっていたそうだ。
当時、市や県から水防の応援が来ていたが、水が怖いのか、なんの役にも立たなかったようだ。そのため水防は、集落の者を中心に行ったという。
また水防の最中、対岸の堤防に油を流し、堤防を壊そうという話が持ち上がったが、誰も対岸まで泳ぎ、油を流す勇気がなかったため、その話は頓挫したという話が残っている。
男性が水防活動をしていると、女性は婦人会などで、にぎりめしや炊き出しの準備を行った。
【水害の状況】
霞堤から洪水が逆流して、榎木町の宮さんから今町までつづく道が、水で溢れて通れなくなった。今町より榎木町の方が土地が低く、水は榎木町の方へ流れるためである。
幸にも今町には、洪水は流れて来なかったが、米やら衣類と子どもを二階にあげていた。
【今村橋が折れた時の状況】
今村橋の橋脚が折れた後、折れた橋の上に仮橋が出来た。折ったところに土嚢を積み、人と自転車が通れるよう復旧した。