8月に流され、再び道路補修をする人々
提供:信楽町多羅尾
8月に続き、再び濁流となった道路
提供:信楽町多羅尾
【ひと月余りの間に、2度の大水害に襲われた多羅尾村】
甲賀郡多羅尾村(現:甲賀市信楽町多羅尾)では、昭和28年8月と9月に、続けて大水害に見舞われた。
その時の状況を、「多羅尾区編纂 多羅尾村昭和大水害誌」(平成元年3月20日発行)より引用して、紹介する。
【昭和28年8月の多羅尾豪雨の概況】
昭和28年8月14日夜から15日朝にかけて、滋賀県南部では、寒冷前線停滞により雷を伴う大豪雨となった。
当時甲賀郡の多羅尾村を中心として甲賀郡南東部の山間部一帯は、300mmを越す雷雨混じりの豪雨となり、特に15日0時頃から3時頃までが最も強く、時間雨量は水口で53mm、大原では60mmを記録し、大戸川・杣川・信楽川・野洲川が増水氾濫した。
【台風13号の概況】
県東側を北東方向に進む典型的な雨台風で、彦根での最大風速は21m/sを記録した。また雨も平野部で100~200mm、鈴鹿、比良の山間部で300~450mmを記録、県下の主要な河川は軒並み決壊した。
【多羅尾村の体験】
多羅尾区編纂「多羅尾村昭和大水害誌」(平成元年3月20日発行)より引用
多羅尾村では、昭和28年8月15日早朝、河川が急速に増水し、随所に「山津波」(土砂崩れ)が起こり、立木もろとも岩石土砂が崩壊し、家屋田畑を埋没させ、あるいは濁流が押し流し、道路は寸断、谷間はそのまま大川となって、避難の猶予すらなく、一瞬のうちに死者44名、全半壊流失戸数が全村の3割という甚大な被害をもたらした。
村が消滅かと思われるほどの被害を被り、茫然となりながら、力強い村長の告示に全村民が励まされて、行方不明者の捜索・埋没犠牲者の発掘・道路河川橋梁の応急復旧工事・残存水稲の検見等農業関係等の手伝い奉仕に出、全村一丸となって復旧に邁進した。
復興へ大きく進み始めた矢先の9月25日、台風13号が本土に上陸。暴風雨特報が入り、全村民避難態勢を取る。
風速15m、雨量140mm。夜9時、解除となったが、応急復旧した村内の道路の大半が、またしても流出してしまった。
それでも、9月28日、全村民が出動し、村内道路の補修を行った。
そんななか、村長は再び、告示をなす。
『村民に告ぐ
村長 多羅尾 光道
台風13号に襲われて 大自然の災害を被ってから1か月半。ようやく応急措置もできあがり、ますます本格的な復興の計画に入ろうとする矢先に台風に襲われ、我々の努力は再び水に流されてしまった。
憂きことの なおこの上につもれかし 限りある身の 力試さむ
我々はこの時こそ底力を出すべき秋だ、このくらいのことで、気をくじかれ力を落とすような我々人間でないと信じる。大いにがんばろう。責任のない人たちの言動に迷わされたり、おだてられたりしている時ではない。また、人をののしったり人をおとしいれようとするようなことは、この際この秋最も慎むべきことで、絶対にこれを排除する。
我々は我々のために心を尽くし、力を合わせて進まなくてはならぬ。何とかなるだろうなんて甘い考えを捨ててかからねばならない。これまで、救援に来て下さった村々はみな今度の水害で同様の災害を被られた。お気の毒にたえない。もう、救援をお願いするところではない。我々は、我々の手でやり遂げなければならない。
頑張ろう、働こう、そして建設へ復興へと力強く邁進しよう。』
8月の多羅尾豪雨で壊れて応急復旧した道路が、9月の台風13号で再び流された。そこを補修している。
この調査は、関西大学景観研究室と協働で行いました。
多羅尾豪雨より1か月後、再び暴風雨が襲い、8月の台風による被害の仮復旧対策が、ほぼ無になって、県内では再び各河川が氾濫決壊。
・大戸川が増水して、牧の集落あたりでは渡れない状況であったため、近隣集落からは、黄瀬から西側へ山伝いに迂回し、救援・復旧活動に来てくれた。
・鹿島神社に集まり、信楽高原鉄道の線路に沿って、多羅尾へ救援に向かった人もいた。
・村の復旧活動は村で行い、人夫に日当を出していたが、その財源を確保するため、当時村の共有財産であった日雲神社境内の神木を伐採した。
復旧時、田んぼや河道内に堆積した土砂を用いて、住宅や堤防、旧道などを嵩上げした。
・昭和33年10月、鹿島神社境内に、昭和28年水害の概要を示した「昭和水害記念碑」が建立された。
被害の詳細や箇所は、水害マップをご覧ください。
【体験者の語り】
県民男性3人Aさん(昭和27年生まれ)、Bさん(昭和25年生まれ)、Cさん(昭和24年生まれ)
Aさん:信楽川は松尾町付近で土砂が詰まったため決壊して来て、下流側にある私の家に水が流れてきた。
Aさん:家の前の川ではなく、家の裏より水が押し寄せて来た。
Bさん:決壊ではなく越水だと思うが。
Cさん:当時、駅前に二つの橋があったが流れていった。その二つの橋間にあった下駄屋さんの家も流れて行った。
Cさん:川を隔てた右岸側の家も流された。
Cさん:弟と2階から二人で水の流れの様子を見ていたら、鶏小屋も流れていったのが見えた。
Aさん:その時、隣の人は足に怪我を負いながら、その家は平屋だったので私の家の2階に来て屋根伝いに逃げた。
Aさん:今の堤防高さより水位が、床上70cmくらいの高さまで来たと親から聞いている。
体験者の語り(地元の方21名による) 聞き取り日 平成27年9月26日
【この調査は、立命館大学歴史都市防災研究室と協働で行いました】
甲賀市水口町三本柳区は、杣(そま)川左岸に位置し、信楽道、伊勢新街道、杣街道などの旧街道が交錯する交通の要所として形成された地区。杣川の渡し場にもなっていたため、宿場町としての機能も果たしていた。
しかし、三本柳区は杣川の渡し場としての特性上、河川のすぐそばに立地しており、それに加えて、杣川に流入する滑(なめり)川・里川・城(じょう)川の四つの河川に囲まれた地形になっていることから、大雨の時にはそれぞれの河川の増水、氾濫により被害を受けてきた。
昭和28年には、杣川の決壊や旧里川の越水により、地区のほぼ全域が床下浸水、一部床上浸水した。同様に、昭和34年の伊勢湾台風の時や昭和40年にも地区内で床下・床上浸水した。平成に入ってからも、全国初の特別警報が発令された平成25年台風18号の時に、杣川から旧里川へ逆流して溢れた水が地区内に流れ込み数件の家が浸水した。また、城川は決壊寸前にまで増水した。
住民の方たちの体験から、地域の特性・昭和28年の水害・昭和34年伊勢湾台風と昭和40年の水害・平成25年台風18号の水害をマップにまとめてあります。
参考(「滋賀県災害誌」より各水害の概要)
【昭和28年8月多羅尾豪雨・台風13号の水害】
8月14日~15日にかけて、多羅尾地域を中心にした甲賀郡(当時)南東部の山間部一帯で、300mmを超す雷雨を交えた豪雨となり、河川は急速に増水し随所で土砂災害も起こり、多羅尾村(当時)では、全半壊流失戸数が全村の4割という大惨事に見舞われた。
杣川も急速に増水し、危険水位1mを越えて3mに達し、堤防の決壊や橋が流失し、建物や田畑に大きな被害をもたらした。
その復旧作業が動き始めた1か月後の9月25日、台風13号が襲来し、再び随所で河川が氾濫、決壊した。
【昭和34年伊勢湾台風 】
9月25日夜間、台風の眼が彦根地方を通過したため、暴風雨が続き、河川の堤防決壊による洪水で、浸水地域が広がった。
【昭和40年9月 台風23・24号】
9月9日以来、秋雨前線による雨が続くなか、10日に台風23号が・17日に24号が立て続けにやってきた。台風24号は、この年の最も大きい台風で、各河川はこれまでの増水した水量に加え、さらに急速に増水し、9月17日23時頃には各地で堤防の決壊が起こった。そのため、家屋の全半壊をはじめ、田畑の流失・冠水などによる水害被害・農作物被害が甚大なものになった。
【平成25年台風18号 】
強風域半径500kmを越える大型の台風18号は、滋賀県で過去に経験したことのない暴風雨をもたらし、滋賀県・京都府・福井県に初の特別警報(平成25年8月30日から運用)が発令された。
このため、県内各地で記録的な大雨となり、高島市鴨川と草津市金勝(こんぜ)川の堤防が決壊したのをはじめ、多くの河川が氾濫し、人家や田畑等広い範囲で浸水して甚大な被害をもたらした。
9月15~16日の総雨量は、大津市葛川(かつらがわ)で635mmを記録している。