甲南町野尻・寺庄 杣川(そまがわ)
提供:甲南町「甲南町20世紀の歩み」から
集中豪雨となって降った雨は、杣川の危険水位1mをはるかに超えて溢れ、家屋を襲っていった。
竣工後日の浅い、金太(かねた)橋や野田橋は流失。
信楽町勅旨
提供:琵琶湖博物館
崩落した、国鉄信楽線(現信楽高原鐡道)の、大戸川にかかる鉄橋。
信楽町勅旨
提供:琵琶湖博物館
崩落した、国鉄信楽線(現信楽高原鐡道)の、大戸川にかかる鉄橋。
信楽町勅旨
提供:琵琶湖博物館
崩落した、国鉄信楽線(現信楽高原鐡道)の、大戸川にかかる鉄橋。
信楽町長野
提供:琵琶湖博物館
呉服店や薬局の前で、水害の後始末をする人々。
信楽町長野
提供:琵琶湖博物館
信楽町長野
提供:琵琶湖博物館
河岸沿いの民家の状況。3件とも河岸の護岸が崩壊し、建物の基礎が流失して倒壊したのだろう。
信楽町長野 国鉄信楽駅近辺
提供:琵琶湖博物館
大戸川にかかる橋から見た。国鉄信楽駅(当時)方面。
手前は、護岸の壊れた大戸川。
バスターミナルの向こうが、信楽駅。
信楽町多羅尾
提供:琵琶湖博物館
上空から見た山崩れの後。いたるところで、崩壊しており、災害のすさまじさが伺える。
信楽町多羅尾
提供:琵琶湖博物館
目の前の山が崩れ、家屋も人も埋もれる大惨事。
信楽町多羅尾
提供:多羅尾自治会
押し寄せた洪水や土砂崩れで、倒壊した家屋
信楽町多羅尾
提供:多羅尾自治会
倒壊した家屋の下に、行方不明者がいないか探す人々
信楽町多羅尾
出典:「多羅尾村昭和大水害誌」
倒壊家屋の除去作業。
機材がないので、人手による。
信楽町多羅尾
提供:多羅尾自治会
大量に堆積した流木やゴミ等
信楽町多羅尾
提供:多羅尾自治会
多羅尾巡査駐在所に張り出された、村長告知「村民に告ぐ」
大水害に、生きる気力をなくしそうになる住民に、力強く前進しようと呼かけ、村の役場や警察署など各所に張り出された。
これを読んで我に返った住民たちは、各地からの救援に感謝しながら、復興に立ち上がった。
信楽町多羅尾
提供:多羅尾自治会
旧甲賀郡多羅尾村役場。
茫然自失の住民に向けた、多羅尾村長による励まし「村民各位に告ぐ」をはじめ、さまざまなお知らせが貼られた村役場の壁。
行方不明者の発見・告別式のお知らせ・消毒薬の配布等が読める。
信楽町多羅尾
提供:多羅尾自治会
大戸川沿いの家。崩壊は免れたようだが、床上浸水したよう。布団が干されている。
信楽町多羅尾
提供:多羅尾自治会
大戸川沿いに建っていた、農協の茶工場。
大洪水に襲われて、骨組みだけになってしまった。
信楽町多羅尾
提供:多羅尾自治会
流木等の堆積物を、みなで取り除く作業中。
機材等もないので、人手で作業。
信楽町多羅尾
提供:多羅尾自治会
復興のために設置された「災害対策本部」と、同居する日本赤十字社の「救援所」。
信楽町多羅尾
提供:多羅尾自治会
多羅尾の大惨事を聞き、救援物資を背負って、多羅尾集落に向かって歩く人々。
国鉄は線路が崩落し、道路は寸断されて、多羅尾は孤立していたので、歩くしかなかった。
米その他の食糧も重く、体力的な負担は大きかったが、県外からも9月末までに、述べ約3600人が、救援の奉仕作業に入村した。
グループごとに旗を持っている。
信楽町多羅尾
提供:多羅尾自治会
復旧に必要な機材や物資を運ぶのに、線路を敷設し、トロッコが利用された。トロッコは、人手で押す。
当時は、大型機材も少なく、復旧作業に人手が必要で、村人だけでなく、近隣・県内、また県外からも多数の人たちが応援に駆け付けた。
信楽町多羅尾
提供:多羅尾自治会
押し寄せた洪水や土砂崩れで、川になってしまった田畑
信楽町多羅尾 多羅尾小学校講堂
提供:琵琶湖博物館
8月14・15日の豪雨で犠牲となった44名の合同葬儀が、9月18日、多羅尾小学校講堂でとり行われた。
大勢が亡くなり、棺が間に合わずに、農協にあった空き茶箱が利用された。