文字サイズ

メイド・イン・滋賀(信楽陶器)

メイドイン滋賀

信楽陶器(しがらきとうき)

信楽の位置マップ
  • 地域/甲賀市信楽町
  • 主な製品/外装タイル陶板、庭園用品類、食卓用品類、花器類、植木鉢類

問い合わせ/信楽陶器工業協同組合
〒529-1811 滋賀県甲賀市信楽町江田985
電話:0748-82-0831ファックス:0748-82-3473
ホームページ:http://www.shigaraki.ne.jp/(外部サイトへリンク)

信楽陶器の紹介動画はこちらをクリックしてください。(外部サイトへリンク)

1300年の伝統を誇る日本最古の産地

甲賀市信楽町(こうかししがらきちょう)─滋賀県最南部に位置する、陶芸の里。レンガ造りの煙突が残るレトロな山間のまちだ。この煙突はひと昔前、重油を※焼成(しょうせい)の燃料としていた時代の名残だという。その前は薪を燃料とする穴窯や登窯が使われていた。窯元散策路を歩くと、そうした薪窯もまだ見ることができる。信楽焼の歴史を語る展示物のようだ。窯元めぐりもできる散策路はさながら街角博物館になっている。

奈良時代、天平14年(742)聖武天皇がこの地に「紫香楽宮」を造営した。しかし、山火事などの天災が続発し、天皇の滞在は長くはなかった。今日、甲賀寺跡などで当時の瓦が発見されるが、それを焼いた窯は未だに発見されていないのだという。信楽焼の歴史のはじまりはとてもミステリアスだ。

鎌倉時代には水がめ、すり鉢、壺などが作られ、室町、安土桃山時代になると茶道具も作られる。本能寺の変の時、堺で孤立無援となった徳川家康が三河へ帰る途中、信楽の豪族、多羅尾一族の援助を受けたことから、後に茶壷が幕府御用達となったというエピソードがある。

第二次世界大戦末期には金属不足から陶器製品の需要が高まり、なかでも信楽焼の火鉢は全国シェアの80%を占めるまでになった。しかし石油ストーブの普及にともない火鉢の売上げは激減。そこで、植木鉢、外装タイル、花器へと品種転換を行い、回避してきた。近年では、傘立て、照明器具、テーブル、椅子、手水鉢、陶製浴槽など幅広い製品を生み出している。信楽焼は人々の生活スタイルの変化とともにその歴史を刻んできたのである。

信楽焼と言えば、狸の置物。道筋に軒を連ねる販売店で必ず大勢で愛嬌を振りまいている。狸が全国に知られるきっかけは昭和26年(1951)、天皇陛下が信楽をご訪問の時、沿道にずらりと並べた狸の置物に旗を持たせてお迎えしたところ、狸を歌に詠まれたことだった。持ち物の徳利に人徳が身につくなど八つの縁起の意味を持たせたこともあり、縁起物として広がった。しかし、そのイメージが強すぎて、信楽焼本来の特徴が一般的に知られていないかもしれない。

まずは土。これは約400万年前、この地にあった琵琶湖の湖底に堆積してできた古琵琶湖層から採る。この土が、信楽焼独特の野趣あふれる肌と温かみのある火色を生み出す。また、火に強く、小物も大物もを造ることができる、頼もしい土でもある。

それから自然釉(しぜんゆ)。一般に陶磁器は吸水を防ぎ、強度や装飾性を高めるために釉薬(ゆうやく)を掛け、ガラス質の皮膜で※素地(そじ)をコーティングする。薪を燃料とする窯の中では、炎の中で降りかかる灰と土が反応することでガラス化し、ビードロ釉と呼ばれる、古信楽の代表的な質感が生まれる。窯の温度や薪の種類などで様々に変化する、文字通りの自然釉。灰に埋まる部分が黒褐色になる「焦げ」も土と炎が織りなす芸術だ。

現在、産地では長い伝統を重んじながら、現代の技術と感性を取り入れた製品が創られている。時代時代を人々と生きてきた信楽焼も次なる道を模索しているところだ。

(取材:2007年12月)

※焼成:粘土を窯で加熱して陶器にすること。
※素地:陶磁器の釉薬以外の部分(ボディ)「そじ」と読まずに「きじ」と読むのは陶磁器特有。

信楽焼の花器
信楽焼のお香立て

ここからメイドイン滋賀写真集です。

ShigarakiYaki
山の斜面を利用して階段状に築かれた登り窯。中はいくつかの部屋に分かれていて、熱が上にいくのを利用して
重油で焼成していた窯のなごりの煙突。てっぺんの一文字は屋号。
信楽焼の土鍋
信楽焼の照明
信楽焼製造所
信楽焼の製造風景