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近江牛の歴史

1 江戸時代

江戸時代の近江牛をめぐる歴史
西暦 年号 近江牛をめぐる歴史
1590年 天正18年 豊臣秀吉の小田原攻略の折、高山右近が牛肉を蒲生氏郷と細川忠興に振る舞う
1687年 元禄年間 彦根藩で牛肉の味噌漬けを考案「反本丸(へんぽんがん)」と称する
1771年 安永年間 彦根牛肉を諸侯に振る舞う
1781年 天明年間 彦根藩で牛肉の味噌漬けを将軍家斉に献上する
1788年 寛正年間 彦根藩で乾燥牛肉製法を始め、将軍家斉に献上する
1848年 嘉永年間 蒲生郡内において、尾州藩士の指導で牛の肥育がはじまる
1853年 安政年間 彦根魚屋町の勘治が、彦根牛の看板をあげ江戸で開業する井伊直弼は殺生禁断のため水戸斉昭に恒例の牛肉献上を中止する
1866年 慶応年間 江州彦根産の牛肉が薬用として売られ「牛鍋屋」が開業される

反本丸(へんぽんがん)

江戸時代には、牛肉は薬用として食されていました。1687年、彦根藩において花木伝右衛門が、明の李時珍の著書「本草綱目」を参考に牛肉の味噌漬けを考案し、「反本丸(へんぽんがん)」と称したと伝えられています。

「本草綱目」は慶長年間に明より伝えられた書物で、その中に 「黄牛の肉は佳良にして甘味無毒、中を安んじ気を益し、脾胃を養い腰脚を補益す」との記述があることから、反本丸は補養薬として製したものと考えられます。当時、公然と食べることができなかったので薬という名目を使ったのかもしれません。

「寒」の干牛肉

江戸時代、彦根藩では牛肉を乾燥させていたという記録が残っています。この干牛肉は、塩加減をできるだけ少なくするため、1年で最も寒い1月上旬から節分までの1か月間で作られていました。古来この1か月間は「寒(かん)」と呼ばれていたため、「寒」干牛肉として薬用に食されていたそうです。その頃の干牛肉の「製法書」が残っています。

製法書の写真
御城使寄合留長(彦根城博物館蔵)

「寒中に肉を割き筋を取り去り、清水に漬けて臭気を抜き、蒸してから糸につないで陰干しする。寒中でなければ、寒明けの頃でも塩を加えなければ痛んでしまう。温暖な季節でも塩を多く使用すれば製造できるが、薬用としての性味が失われ、御用に立たない。」と書かれています。

徳川斉昭からのお礼状

彦根の牛肉は、滋養のため多くの大名などから所望されていました。水戸の徳川斉昭も牛肉愛好者の一人でした。

徳川斉昭書状別紙
徳川斉昭書状別紙(彦根城博物館蔵)

嘉永元年(1848年)12月に彦根藩主井伊直亮から斉昭に牛肉を贈ったことに対する礼状の一部です。最後に「度々牛肉贈り下され、薬用にも用いており忝ない。」と感謝の気持ちを記しています。

厚木の牛肉店

写真は、文久3年(1863年)ごろ来日した写真家フェリックス=ぺアトが、来日間もない頃に宿場町厚木の風景をとったものです。右側の店が掲げている看板には「牛肉漬」「薬種」との表記があります。つまり明治維新の3〜4年前のころ、東海道から離れた厚木のような小さな町で、江州彦根産の牛肉(おそらく味噌漬)が薬用として売られていたということがこの写真でわかります。(参考:「牛肉と日本人」吉田忠 著)

彦根牛肉看板
幕末の厚木宿で彦根牛肉を売る店
幕末の厚木宿で彦根牛肉を売る店(横浜開港資料館蔵「F.ペアト幕末日本写真集」より)

2 明治時代

明治時代の近江牛をめぐる歴史
西暦 年号 近江牛をめぐる歴史
1869年 明治2年 県内から陸路で17〜18日間を要し横浜まで牛を追い、外国人との直接取引が始まる
1877年 明治10年 逢坂、武佐、大町、豊郷、今津と場で日々50頭のと畜が行われる
1879年 明治12年 竹中久次が東京に進出し、牛肉卸売小売業「米久」を開業。江州産を中心に1日40頭と畜される
1882年 明治15年 神戸港から海運により牛を東京に出荷する
1884年 明治17年 四日市港から海運により牛を東京に出荷する
1887年 明治20年 と殺条例が制定。東京府下のと畜数は2万頭(産地別内訳は近江33%、摂津32%、播州11%、伊勢7%)
1890年 明治23年 前年の東海道本線開通により、八幡駅より牛の輸送が始まる
1892年 明治25年 朝鮮半島より牛疫が伝播し、生牛の輸送が禁止される
1907年 明治40年 近江牛育ての親の西居庄蔵翁が蒲生郡牛馬商組合を設立する
1910年 明治43年 家畜市場法の制定交付により県内家畜市場改組、草津、八日市、貴生川の市場整備される
1911年 明治44年 常設家畜市場開設される(草津・貴生川・湖東・八日市・瀬田・野洲・西押立・木之本)

出荷ルートの変遷

明治5年頃
出荷ルートの変遷(明治5年頃)
  • 東海道陸路輸送
明治15〜17年頃
出荷ルートの変遷(明治15から17年頃)
  • 神戸港から下田港、横浜港へ生体出荷(15年〜)
  • 四日市港からも生体出荷(17年〜)
明治25年頃
出荷ルートの変遷(明治25年頃)
  • 東海道近江八幡駅から東京へ枝肉出荷

鉄道で運ばれ始めると、近江八幡駅から荷積みされたものとわかり、一躍「近江牛」は有名になりました。

3 大正〜平成

大正から平成の近江牛をめぐる歴史
西暦 年号 近江牛をめぐる歴史
1906年 大正3年 東京上野公園で全国家畜博覧会開催、蒲生郡の牛が優等1位となる
1932年 昭和7年 県立種畜場が野洲町市三宅に設置される
1935年 昭和10年 東京芝浦家畜市場の共進会で蒲生郡の牛が優等3位となる
1942年 昭和17年 役肉用種牝牛貸付規定により、和牛飼育を奨励する
1948年 昭和23年 滋賀県に畜産課が新設される
1951年 昭和26年 近江肉牛協会が設置される
1952年 昭和27年 近畿東海北陸連合肉牛共進会(第1回)が開催される
1954年 昭和29年 日本橋・白木屋で近江牛の大宣伝会が開催される
1959年 昭和34年 和牛生産団地育成事業、肉蓄団地設置事業等により肉用牛の生産を図る
1962年 昭和37年 滋賀県家畜商業協同組合が設立される
1966年 昭和41年 株式会社「滋賀食肉地方卸売市場」が設立される
1991年 平成3年 牛肉が輸入自由化となる

大宣伝会

近江肉牛協会が誕生して間もない昭和26年から、東京の芝浦で生体コンクールが行われ、昭和28年には、国会議事堂や上野公園で、昭和29年には白木屋において宣伝活動が盛大に行われました。

堤衆議院議長が近江牛にレイを授与
堤衆議院議長が、近江牛にレイを授興
近江肉牛の公開せり市
近江肉牛の公開せり市(昭和29年 日本橋白木屋屋上)

昭和6年の牛の移出入

主な道府県の移出入
移入 移出
東京都 5,017頭
神奈川県 300頭
兵庫県 3,544頭
大阪府 1,006頭 → 滋賀県 →
京都府 2,433頭 京都府 1,986頭
三重県 179頭 三重県 662頭
福井県 752頭 福井県 25頭