滋賀県では、令和4年度に『特別史跡安土城跡整備基本計画』を策定し、天主台周辺地区、主郭部周辺地区、大手道周辺地区、旧摠見寺・百々橋道地区などにおいて、20年計画で環境整備等の事業を実施することとしました。令和5年度は、天主台周辺地区の環境整備に関わる資料を得るため、天主台東面および本丸取付台北半部において発掘調査を実施しています。
調査地は非公開地区です。調査以前の状況は樹木が繁茂した状態であり、本丸取付台では建物礎石が一部露出していました。
なお平成12年度に確認調査を実施し、本丸取付台の一部で建物礎石を確認しています。
最上層の腐植土層(第1層:缶・バランなどの現代の遺物とともに瓦片や焼け固まった壁土片を含む)の下に、拳大から人頭大を中心とした礫層(第3層)が広く堆積しています。また、後述する天主台石垣築石の背面では、第1層の下に天主台石垣の裏込層に黄褐色粘土層の混じった土層(第6層)が堆積しています。
天主台石垣の築石と石垣の崩落土層を検出しました。
天主台石垣の上部はその前面に崩落しており、崩落した石垣裏込層と築石が広く斜面をなして堆積している状況です。
確認できた築石は高さ1石から3石分です。また調査区北端では、鈍角の鎬になっている算木積みの隅角部を検出しました。
築石背面では、天主台の現存する天端に堆積している黄褐色系の土層に栗石が混じった層(第6層)の上面を検出していますが、この層は天主台石垣が崩落した後に堆積した土層と考えられます。
崩落土層は、上面を検出したのみですが、ここからは遺物が出土していないため、堆積した時期は現時点では不明です。しかし、崩落土層の裾部では、本丸取付台の建物に伴う瓦や壁土の上に崩落土層が堆積しているようなので、天正10年の主郭部焼亡からそう遠くない時期に堆積したと考えられます。
最上層の腐植土層(第1層)の下に、軟質の暗灰褐色もしくは暗黄褐色混砂土層(第2層)があります。基本的にその下に硬質の黄茶色混砂土もしくは黄灰白色土層(第5層)があり、この層が天正期の遺構面となります。なお、部分的に第5層の上に(特に天主台石垣崩落土層裾部に近い個所)硬質で焼土と瓦の細片を含む灰白色もしく灰黄色混砂土層(第4層)が堆積しています。
本丸取付台では、一部を除いてその周囲にある石垣の積み直しが、昭和40年代に行われています。腐植土を除去した段階で、この修理に伴うと考えられる遺構を検出しました。S0はこの修理に伴う石垣裏込層、S1・2は土坑で埋土に番線やボルト付きの金物などが含まれることから、この修理に伴って掘られた穴であると考えられます。裏込層(S0)は、施工年度によって天端の高さが違い、北端の昭和48年度に施工された部分では現天端石の裏側に全く裏込石が入れられていません。また、礎石を検出した遺構面の高さと比べて、石垣天端石の上面高が低いことから、全体的に天端石が一石分足りないとみられます。この部分の遺構面については、昭和40年代の修理以前にすでに欠失していたものと推察されます。
基本層序で述べた第5層上面で、建物の礎石列と礎石抜き取り跡、建物に付随すると考えられる遺構を検出しました。
建物跡の礎石列は、北側柱列と西側柱列と考えられる列を検出しました。礎石は本丸などと同等の大型のものを用いています。被熱のため赤変しているものが多く、また表面の剥離や礎石自体が割れているものもあります。なお、礎石の一部(S1東側の礎石)には表面観察で柱の痕跡が確認できます。
礎石列は、西側柱列は礎石が揃っていますが、北側柱列は礎石の有る部分と無い部分があり、無い部分には礎石抜き取り跡と考えられる土坑(平面図の網掛け部分)があります。また、北側柱列と考えた柱列からさらに北へ一間分飛び出した礎石を一石だけ確認していることから、建物は北へ延びる可能性があります。
柱間は、建物北西隅の礎石を基準とすると、その東の礎石との間が8尺、以後5尺5寸の間隔で土坑が並び、南側には6尺5寸、3尺、7尺の間隔で礎石が並びます。8尺の柱間は、これまで城内で確認した建物の柱間(天主は7尺、本丸御殿は7尺2寸、伝羽柴秀吉邸跡上段部は6尺3寸、下段部は6尺5寸)の中では最大のものとなります。
建物の全体規模については不明で、次年度以降の調査を含めて検討する必要があります。
また建物の方位は、今のところ本丸取付台東端石垣(伝台所背面の高石垣)天端の方位に規制されているように見えます。また、天主台石垣裾部の方位との関係は今のところ詳細は不明です。この点は、全体規模と同様に、次年度以降の調査での所見も含めて検討する必要があると考えています。
礎石列の外側には遺構があります。西側柱列の外には石列があり、その外側の遺構面が一段低くなり瓦片などが堆積している状況を確認しました。
また北側柱列の外側には、瓦片や焼土粒を含む硬質の灰白色土層が見られることから、建物の外側が一段低くなっている状況、もしくは土塀の基礎構造を検出したと思われます。このことから、西側柱列の外側は天主台石垣裾部まで建物等がなく通路状の空間であった可能性が高くなりました。
建物礎石には被熱した痕跡が見られることから、ここにあった建物は火災によって焼失したことは明らかですが、その上には火災に起因する遺物などの堆積が、ほぼ見られませんでした。第4層とした土層がその一部と考えられますが、かつて天主台西面の発掘調査で確認したような火災の生々しい痕跡はありません。このことから、本丸取付台一帯は、天正10年の主郭部一帯の火災から現在に至るまでのある時期に、火事場整理が行われたものと考えられます。
石垣上部が倒壊し、下部の築石の前面に堆積している状況を確認しました。天正10年6月、本能寺の変の後、安土城天主が焼失・倒壊した時に崩れたものと考えられますが、残存する築石の高さがほぼ揃っていることから、自然倒壊したものではなく、人為的に崩された、「破城」が行われた可能性も考えられます。安土城は、天正13年の八幡山城(滋賀県近江八幡市)の築城に伴って廃城となることから、この時に破城が行われた可能性が考えられます。
※破城~城の機能が失われたことを視覚的に示すために、意図的に城を破壊すること。門や石垣の隅角部など、目立つところを破壊することで、城が破壊されたことを象徴的に示す。
直交する二方向の礎石および抜き取り跡を検出しました。平成の調査で確認した礎石とあわせて、本丸取付台に建物が存在したことが確認できました。しかし、建物の規模や構造、役割の解明にはさらなる調査が必要です。
礎石からは柱の痕跡など火災の痕跡が見られ、安土城炎上の様子を物語っています。また、伝二の丸東溜まりで検出された焼け瓦の堆積のような被熱した遺物の堆積が見られないことから火事場整理が行われたと考えられます。その時期について不明ですが、天主焼失から天正13年の廃城までの信長の後継者が安土城に入城した時期、江戸時代の摠見寺による安土山の清掃管理、昭和40年代の石垣修理に伴うもの、などのいくつかの可能性が考えられます。
これまで、公文書でしか確認できなかった昭和40年代の石垣修理の実施状況を現地の遺構で確認することができました。本丸取付台の外周については、石垣や裏込め石も含めて築城時の遺構が失われており、修理に際して裏込めも含めて石垣を積み足したものと考えられます。
今回の調査では、信長時代の安土城だけでなく、本能寺の変から現代にいたるまでの安土城の歴史を物語る遺構が検出されました。これまでは文字資料のうえで確認されていたことですが、安土城の歴史が、本能寺の変の段階で止まるのではなく、現代まで長く続いていることが、現場の遺構として明らかになりました。
令和5年度特別史跡安土城跡天主台周辺地区の発掘調査について、調査結果を取りまとめた県の調査整備検討会議委員・坂井秀弥氏(考古学・史跡整備)から下記のとおりコメントをいただきましたのでお知らせします。