植遺跡は、野洲川上流域右岸に位置する。いわゆる「水口盆地」の中央部付近 で、樹枝状に発達する低位段丘の一つに立地している。
その位置は、野洲川の上流部と中流部とを画する、「横田渡し」としても知られ る狭隘部を越えて水口盆地が広がる場所であり、また、野洲川と杣川との合流点 をのぞむ位置で、伊勢へ向かう東海道と伊賀へ通じる倉歴道(くらぶみち)の結節点にも近接する。
平成13・14年度に滋賀県が実施した発掘調査では、竪穴住居103棟や掘立柱建 物18棟などが密度高く検出され、中には鍛冶工房となる建物や備讃地域から運ば れた製塩土器など、手工業生産や遠距離交易に関する遺構・遺物も見られる。県内有数の規模を持つ集落遺跡であるとともに、地域の生産活動や交易の拠点でもあったと考えられる。
集落形成の契機となった5世紀代の3棟の大型倉庫建物は、床面積が49~67平方メートルあり、通常の倉庫建物の2~3倍の規模となっている。こうした5世紀代の大型倉庫建物は、奈良県、大阪府、和歌山県などで事例が知られ、大和王権直属、あるいは王権を構成する有力な首長層が営んだものと考えられている。
植遺跡の倉庫建物についても、大型の倉庫建物であるとともに、規則的、かつ、密接して営まれることや、明確な区画施設を持たないことなど、これらの遺跡と共通する特徴が指摘でき、同様の経緯によって営まれたと考えられている。
また、近辺には滋賀県指定史跡の泉罐子塚古墳群や金銅装甲冑が出土した泉塚越古墳が存在し、野洲川の対岸には300基規模の甲賀群集墳が営まれている。これらの古墳と植遺跡の間には密接な関係が想定でき、集落遺跡の動向と墓制(古墳)の動向を一体的に理解することを可能にしている。
以上のように、植遺跡は野洲川の河川交通と東海道や倉歴道など陸上交通の結節点を掌握した当地の首長層が、その財力や政治力を誇示する目的で建設した、大型倉庫建物群とこれに続く拠点的な集落遺跡と考えることができ、滋賀県の歴史を考える上で、欠くことのできない重要な遺跡である。今回これを指定し、保存策を講じるに相応しいと言える。
参考文献:滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会『植遺跡甲賀市水口町植』平成17年3月