中山道鳥居本宿を代表する商家である有川家の住宅に付属する三方を建物で囲まれた庭園で、主屋の座敷前の池庭と東側の書院棟前の平庭で構成される。
主屋座敷前は、余地の少ない空間に大きく深い池を中央に穿つ。水面が低く座敷から見下ろすことで、立体感を表現するとともに、背後に湖北の山々を望めるなど、優れた景をなす。なお、庭園北側外部を流れる水路の改修により、現状の池の水位は作庭当初より高くなっている。
池は丁寧な石組で護岸され、特に、奥部から出島にかけてはチャートの大石を効果的に使用し、優れた意匠に仕上げている。また、池中には岩島を配するなど、庭全体が力強く、見応えのある構成となっている。さらに、出島から主屋側へは4メートル、西対岸へは2.8メートルの橋を架ける。この橋の奥には金比羅大権現の祠を祀る。なお、この橋は本来木橋であったが、現在はコンクリート製となっている。しかしながら、意匠と細工に優れ、違和感は少ない。
当該庭園については、建物との関係から宝暦9年(1759)の主屋建築にあわせて池庭が計画され、宝暦12年(1762)の粉挽蔵の棟上げと同じ頃に完成したと考えられ、この年代観は石組などとも矛盾はない。その後、寛政7年(1795)の文庫蔵の建築に伴って池庭の一部が影響を受けたと考えられるが、基礎を切石積みとすることや、壁をなまこ壁にすることなど、文庫蔵自体を庭園の景の一部に取り込むような状況が見られる。
さらに、文化5年(1808)には東側に書院棟が増築され、建物に囲まれるという庭園の基本構造が完成する。これに伴い池庭の北西部付近などにも若干手が加えられたようである。なお、書院棟の建築にあたっては、ここからは池泉部分を見せないようにする一方、書院北側の空閑地を経て、池庭奥部の景の一部が見通せるようになっている。このように公家や高僧などを迎えるために建築された本格的な書院建築の庭として、座敷の庭と区別化したものとも考えられ、座敷と書院では、一部を共有しつつも全く異なる景を見せる。なお、橋杭形手水鉢とその周辺の石組は、明治11年(1878)湯殿増築に伴うものであろう。
以上のように、当該庭園は作庭者などは伝わっていないが、限られた空間内での工夫された作庭がみられ、中山道を代表する商家の庭園として相応しい趣のある景を有している。また、屋敷地や家屋の拡大・増築に伴い、庭にも手が加えられ、商家の発展過程を示す庭園としても貴重である。今回指定することにより、保存の策を講じ、末永く後世に伝え残すべき名庭である。