笑う門には福来る
1日の終わりに、今日は楽しかったなとか、憂鬱(ゆううつ)な日だったなとか振り返ることがあるかも知れません。私たちは、日々いろいろな感情を抱きながら過ごしています。楽しいことがあれば笑顔に、嫌なことがあれば不機嫌(ふきげん)な顔に、怒ったり泣いたり、感情と共に表情も変化しますね。
一般的に私たちは、「楽しいから→笑顔になる」し、「悲しいから→泣く」の順番で感情が生まれると考えていますよね。
実は、約100年前に全く逆のことを考えた学者たちがいました。その学者たちは、例えばクマに出くわすと、一瞬全身が震え、心臓がドキドキするなどの身体反応があり、その反応が恐怖という感情として認識され、『クマだ!怖い!』ということになると考えました。
つまり、「怖いから→身体が震える」ではなく、「身体が震えるから→怖い」なのです。
では、「笑顔になるから→楽しい」についてはどうでしょうか?これについて、この学者たちはある実験をしました。
本当の実験の目的を隠して、「口でペンをくわえて字を書くことができるようにするトレーニングの研究」と宣伝し、参加者を募(つの)りました。参加者を2つのグループに分け、一つのグループには口をウーの形(不満げな表情)でペンをくわえてもらいます。もう一つのグループには、口をイーの形(楽しそうな表情)でペンをくわえてもらいます。その後文字を書いてもらいます。一通り終わった後に、両方の参加者に全く同じ漫画を読んでもらいました。
すると結果は・・・どうなったと思いますか?
実は、イーの口(楽しそうな表情)のグループの方がその漫画をより面白いと感じたそうです。どちらも感情を持たないときに作っていた顔の表情が、その後の感情に影響を与えたのです。このことから、私たちは楽しいことや面白いことが目の前になくても、表情だけでもいいので笑顔を作れば、自然と楽しい気持ちになれると言えます。
どんよりとした気分のときや緊張しているときなど、数字の2(に〜)を言ってみて、口元だけでも笑顔を作ってみれば少し気持ちが楽になるかもしれません。自撮りなどの写真もおすすめですね。
その時の掛け声はもちろん、「はい!チィーズ!」。
ぜひ、口角(こうかく)を上げていきましょう。笑顔でいれば楽しいことが訪れるかも? 笑う門(かど)には福来(きた)る?かも知れません。
「めんどくさい」の正体は何?
しなければならないことがあるのにすぐに取りかかれない時、人から頼まれたことを先延ばしにしてしまいたい時、「めんどくさいな」という気持ちになりませんか。
めんどくさいを漢字にすると「面倒くさい」です。「面倒」の意味は、時間がかかる、内容が簡単ではない、難しい・・・などです。短時間で簡単にできてしまうことなら、一瞬「めんどくさいな」と感じても、行動に移せるでしょう。しかし、気持ちを切り替えて行動を起こせないのは、自分にとって苦手なことや、我慢や努力が要ることなので、時間がかかる、難しいことだと分かっているからかもしれません。
そして、やり遂げるまでの行程の見通しが立たない時には、なおさら行動を起こす気持ちがわいてこないでしょう。また、好きなことや楽しいことに没頭しているとき、例えばゲームをしている、音楽を聞いている、本やコミックを読んでいる、動画をみている時などは、気持ちをすぐに切り替えることはとても大変ですね。
このように考えると、「めんどくさい」とよく言う人は単なる怠け者ではないとも言えますね。そもそも怠けているのなら、できる力があるのに行動しないだけですが、自分にとって少し苦手なことや、難しくて時間がかかることに取り組もうとしているからこそ「めんどくさい」と思うのではないですか。
そんな時は、「難しい、教えて欲しい」と人に助言やアドバイスをもらうことから始めるのも一つの方法ではありませんか。単なる怠け者ではないのですから、わからないことや難しいと思うことを教えてもらうことができれば、解決へと進めます。自分一人で取り組めるとよいのですが、なかなか行動に移せない時には、助けを求めてください。
自分の苦手なこと、できないことを認めるのは、残念な気持ちもあるでしょう。しかし、いつまでも苦手なことやできないことを見ないようにしてしまうより、できるところまででも前に進めるようにしたいものですね。人に聞いて助言を得る、ヒントをもらうことは、悪い事ではありません。自分の苦手だったことを克服する糸口を見つけることが大切なのだと思います。
やらなければならないことに取り掛かった時にはすでに半分できていて、半分できた時には最後の完成に到達すると言われています。
「めんどくさいな」の思いが口にでる時には、自分にとって苦手なことに取り組もうとしている時なのかも知れないことに気付けるといいですね。
『正解』を求める心の動きと不安の関係
私たちは元々、「よく分からないこと」に出くわすと「不安」を感じ、答えを求めようとします。私たち人間が未知のものを食べたり触ったりすると、病気になったり襲われたりするかもしれない環境で生きていた時代の生存本能とも考えられます。自分の身の安全を守るためには、自分にとって害のないことかどうか判断し、「どうふるまったら安全か」を知ることが大切で、年長者から「正しいふるまい」を教えてもらうことが重要でした。
しかし近年のグローバル化に伴い、多様な文化や価値観を持つ人々の交流や、様々な分野の研究開発が盛んになり、新しい考え方がどんどん生まれています。それぞれの考え方、ふるまい方、アプローチのやり方に違いがあることが分かり、「正しいふるまい」や「正しい考え方」も一つに決められなくなってきているのを皆さんも感じていると思います。
世界中それぞれの国で多様な法律があることを知っている人も多いでしょう。私たちが今まで「常識」と思っていたことは、その環境を出れば、あるいは時間が経てば「常識ではなくなることもある」と知られるようになってきました。今や「絶対的な正解」と言える事柄は存在しえないのかもしれません。
「正解」を求めても分からないことを私たちは理解しているのですが、その一方で、私たちの生存本能が「正解」を知って安心しようとする自然な心の働きがでてくるので、正解を追い求めようとしてしまうことも体験するでしょう。私たちが生きていくにはこの「正解が欲しい、でも見つからない」という不安と付き合っていくことが求められるのかもしれません。時代が急激に変化する昨今、「正解のないあいまいで不安な状態」を耐える力が以前よりももっと重要になっていくのではないかと思います。
不安と付き合い「自分なりの解決」を見つけるためには、人の話をきく、話しをきいてもらって考えを整理する、いろいろなところに出かけてみる、本を読む、映画をみる等、さまざまな体験の中からヒントを得、それをもとに自分で試行錯誤し、もがいてみることが大事だと思います。そのプロセスそのものがその人らしいふるまい方を育み、その経験が後々、他の人の気もちを理解できる人間としての幅として現れるのかもしれません。いろいろな方法を試しながら自分にあう不安との付き合い方を探していきましょう。
「なってみた」
「~っぽくする」「〇〇テイストで」「なんとか風に」などいろんな表現がありますが、それらはすべて何かの真似をすることです。真似というと、「パクリ」、「オリジナリティがない」など否定的な印象がありますが、そもそも私たちは真似する動物であり、むしろきちんと真似ることが成長や独自性につながるという面もあります。
例えば赤ちゃんを思い浮かべましょう。赤ちゃんは様々なものに興味を持ちます。なかでも人に対する敏感さには素晴らしいものがあります(養育者と似た声の人が頭上から声をかけると、間違うこともありますよね。赤ちゃんは背が低いので…)。そうして「ちょうだい」「どうぞ」ができたり、「バイバイ」ができるようになっていきます。これらはみな「模倣」のたまものです。そうやって、適切なふるまいを身に着け、社会に招き入れられていくのです。しばらくすると「同一化」という現象が見られるようになり、周囲が持っている物を欲しがり、ファッションを真似るようになります。「推し」のグッズを身に着けることもしかり。人は人生のほとんどを真似して過ごしているのかもしれません。
しかし年頃になると、「自分って何だろう」という問いが生まれます。「人と比べて自分は何が得意だろう?」「頑張ってやってきたけど、それって親の期待だったのかも」など、自分に対して疑いの気持ちが生じ、不安や緊張が訪れます。「私はどうやって今まで“私”をしていたのだったっけ?」。それはまるで、踊り方を尋ねられた途端、ステップが踏めなくなった昔話のムカデのようです。
こういうとき試してみたいのが、意識的に誰かに「なってみる」ということです。「発表が緊張する」のであれば、憧れの先輩になってみましょう。先輩なら、どんな話し方をしますか?どんな表情を作りますか?もちろん「先輩」の憑依(ひょうい)は3分が限度かもしれません。しかし一瞬でも「誰か」になれたことは、自分がその表現の行為主体になれたという点では「私らしさ」の一歩です。「意識的に」というのがミソで、そこに自分の工夫が入るからです。
そう、オリジナリティは細部に宿るのです!真似からのズレ、原版のアレンジによって文化が発展してきたように、借り物の型から始めて、それを使いこなせるようになったときに、あらためて私たちは「自分ってまあこんなもんだよな」と受け入れられるのではないでしょうか。